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常陸平氏(ひたちへいし)は、桓武平氏のうち常陸国を本拠とした高望王流坂東平氏の一族の呼称で、軍事貴族(武家貴族)の家柄である。後に惣領家が大掾氏を称した。伊勢平氏とは同族であり、鎮西平氏(伊佐氏)、越後平氏(城氏)、信濃平氏(仁科氏)、海道平氏(岩城氏)などの庶家を出した(ただし、信濃平氏と海道平氏は庶家ではなく、別系統とする説もある)。通字は「幹」(もと)。 もっとも、吉田氏改め大掾氏が常陸平氏の惣領として描く歴史観は、大掾氏自身が作成した系譜(『常陸大掾系図』・『常陸大掾系図』)に基づくところが大きく、常陸平氏の実態を示していないとする批判も存在する〔高橋修「『常陸平氏』再考」(初出:高橋 編『実像の中世武士団』高志書院、2010年)/所収:高橋 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一六巻 常陸平氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-167-7)〕。 また、清和源氏や出羽清原氏とは縁戚関係でもあった。 == 歴史 == === 勃興 === 昌泰元年(898年)に上総介に任じられた父の平高望とともに坂東に下向した高望の長子・平国香は、前任の常陸大掾源護の娘を妻とし護よりその地位を受け継ぎ常陸大掾として常陸国筑波山西麓の真壁郡東石田に住したが、護の子扶らと下総を本拠とする甥の将門との抗争に巻き込まれて亡くなり承平天慶の乱の発端となる〔例えば、河合敦『早わかり日本史』などでは、吉川英治や海音寺潮五郎の小説から、「弟の良将の領地を国香が奪ったため、良将の子将門は国香を討って領地を取り返した。」のようになっているが、これはあくまでも「早わかり」であり、俗説なり通説なりの説があるわけではない。〕〔海音寺潮五郎はその著書『悪人列伝 古代篇』に、抗争の原因について「歴史上のこんなことは古文書でも発見されないかぎりほんとうのことはわからないのだから、面白ければ面白いほどいいのである。」とし、国香の死因については「将門記ではいつどこで討取られたか書いてないが(死んだとすら書いてなく、貞盛の行動から国香が死んだことが推察できるのみである)、国香も武人だ、・・だから戦死したのであり、」として何の根拠もあるわけではないことを明言している。〕 。その後、国香の嫡子貞盛は藤原秀郷らの協力を得て将門を討ち、その報償として常陸に多数の所領を得る。貞盛は一族から多数の養子を迎えたことで知られ、この内、弟である繁盛の子維幹を常陸に赴任させた。維幹は同国筑波郡多気に因んで多気権大夫と号し、ここを拠点にして勢力を拡大させていく。これが常陸平氏の始まりである。常陸平氏は大掾職を代々継承し、苗字にしていく。維幹の後は長男の為幹が継ぐが、次男の為賢は伊佐氏を号し、後に肥前に移住して鎮西平氏を形成する。 その一方で「常陸平氏は大掾職を代々継承した」とする伝承には史実との整合性に合わない部分があり、12世紀に常陸国の国衙が発給した文書には大掾の世襲が事実とすれば当然記されているべき大掾の署判が存在せず、何よりも大掾氏(吉田・馬場氏)の系図ですら為幹の次に大掾の地位に就いたのは曾孫である馬場資幹とされている。従って、馬場資幹以前の常陸平氏を「大掾氏」と呼称するのは不適切であると考えられる〔。 維幹の兄弟の方では、維茂(同じく貞盛の養子)は越後に赴任して、その子孫は城氏を称して越後平氏を形成する。他にも、兼忠の子孫は信濃平氏(仁科氏)として、安忠の子孫は海道平氏(岩城氏)として発展したとされる(上記参照)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「常陸平氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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