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幕末の三筆 : ミニ英和和英辞書
幕末の三筆[ばくまつ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [とばり, まく]
 【名詞】 1. curtain 2. bunting 3. act (in play) 
幕末 : [ばくまつ]
 【名詞】 1. closing days of the Tokugawa shogunate 2. end of Edo era 
: [まつ]
  1. (n-adv,n) the end of 2. powder 
: [み]
  1. (num) three 
三筆 : [さんぴつ]
 (n) three famous ancient calligraphers: Emperor Saga and Tachibana (no) Hayanari and Kooboo Daishi
: [ふで]
 【名詞】 1. writing brush 

幕末の三筆 ( リダイレクト:三筆#幕末の三筆 ) : ウィキペディア日本語版
三筆[さんぴつ]

三筆(さんぴつ)とは、日本の書道史上の能書のうちで最も優れた3人の並称であり、平安時代初期の空海嵯峨天皇橘逸勢の3人を嚆矢とする〔春名好重 pp.106-107〕。その他、三筆と尊称される能書は以下のとおりであるが、単に三筆では前述の3人を指す。
* 世尊寺流の三筆藤原行成世尊寺行能世尊寺行尹)〔
* 寛永の三筆本阿弥光悦近衛信尹松花堂昭乗)〔
* 黄檗の三筆隠元隆琦木庵性瑫即非如一)〔
* 幕末の三筆市河米庵貫名菘翁巻菱湖)〔
* 明治の三筆日下部鳴鶴中林梧竹巌谷一六)〔石川九楊 p.213〕
この中で最も有名なのは、平安時代初期の三筆と寛永の三筆である。なお、三筆ではないが、平安時代中期の三跡もこれに比肩する〔。
== 3の名数による主な能書の尊称とその歴史 ==

; 3の名数について
説文解字』に、「三は、天地人の道なり。」〔「三:天地人之道也」(『説文解字』巻2#三部)〕とあり、三は天地人の数として聖数とされる。また、『後漢書』に、「三は数の小終なり。」〔「三者,數之小終」(『後漢書』巻74上)〕とあり、『史記』には、「数は、一に始まり、十に終り、三に成る。」〔「數始於一,終於十,成於三」(『史記』巻25)〕とある。つまり、三は成数(まとまった数)とされ、三によってすべてを代表させるという意味がある。よって、三筆、三跡、三金()、三代()、三才()、三体(楷書体行書体草書体)など、3の名数は極めて多く、その数は千数百に及ぶ〔小松茂美(日本の書) p.12〕〔白川(字統) p.363〕〔白川(常用字解) p.232〕〔諸橋轍次(巻1) p.107〕。
; 名数の著作のはじまり
名数を集めた著作は、中国南宋時代の王応麟の『小学紺珠』(しょうがくこんじゅ、10巻)が最初で、ついで、明代張美和(ちょうびわ、1314年 - 1396年)の『群書拾唾』(ぐんしょしゅうだ、12巻)がある。この『群書拾唾』が日本に渡来し、この影響を受けて貝原益軒延宝6年(1678年)に『和漢名数』(2冊)を刊行した。これが日本で最古の名数の著作である。また、延宝8年(1680年)の節用集『合類節用集』の数量門に、数値に関連した語が記載されている〔〔飯島春敬 p.311〕。
; 三筆
『和漢名数』の中に三筆の名によって平安時代初期の能書として空海・橘逸勢・嵯峨天皇の3人を挙げている。また、『合類節用集』(数量門)にも本朝三筆として、「嵯峨帝、橘逸勢、釈空海」とある。
『和漢名数』より古い文献に三筆という呼称は見えないが、12世紀の説話集『江談抄』巻2に、弘法大師・嵯峨帝・橘逸勢の3人が大内裏門額の筆者として称揚されている。この門額の筆者には小野美材も伝えられており、これが事実であれば4人の中から特に3人を挙げていることになるため、三筆という考え方の源流をなすものといえる〔〔〔江守賢治 p.54〕〔神田喜一郎 p.14〕。
; 三賢→三跡
平安時代中期の能書のうちで最もすぐれたのは、小野道風藤原佐理藤原行成の3人で、三賢といわれた。また、道風の書跡を「野跡」、佐理の書跡を「佐跡」、行成の書跡を「権跡」という。それらの呼称の記録は尊円法親王書論入木抄』が最初で、「野跡佐跡権跡三賢を末代の今にいたるまで此道の規範としてこのむ事云々」とある。その三賢を現在の呼称である三跡と記したのは、『合類節用集』(数量門)が最も古く、「本朝三蹟、道風・佐理・行成」とある。なお、『江談抄』には、兼明親王・佐理・行成を当代の能書として並称しており、また、平安時代の歴史物語栄花物語』では、兼明親王と道風の2人を挙げている〔〔〔飯島春敬 pp..309-310〕。
; 三生→三聖
平安時代末期の書論夜鶴庭訓抄』(類従本)に、三聖として、空海・天神(菅原道真)・小野道風の3人を挙げている。しかし、桂身本の懐中抄と名付ける『夜鶴庭訓抄』には、三生となっている。三生とは、空海の生まれ変わりが天神であり、天神の生まれ変わりが道風であるという後身説のことであるが、この後身説が薄らいだ近世になって三生が三聖に書き改められたと考えられる。道真は「書道の神様」といわれ、その善書は人のよく知るところで、『入木抄』にも、「その後(三筆の後)聖廟(道真)抜群なり」とある。しかし、空海や道風のような能書ではなかったともいわれる。道真の遺墨として確実なものはなく、はっきりしない〔〔〔〔藤原鶴来 p.222〕。
; 平安の三筆→寛永の三筆
安土桃山時代に能書をもって聞こえた本阿弥光悦近衛信尹松花堂昭乗の3人は、三筆といわれていた。が、平安時代の三筆と区別して、初め京都の三筆といわれ、また平安の三筆(この平安は京都の意)や洛下の三筆などと称した。あるいは、後の三筆、近世の三筆、慶長の三筆ともいわれている。しかし、江戸時代前期の寛永年間を中心とした約80年間の文化を寛永文化ということから、寛永の三筆の呼称が普通である。なお、空海・橘逸勢・嵯峨天皇の3人を平安時代の意から平安の三筆と呼ぶのは誤りで、平安の三筆とは、前述のように寛永の三筆の古称を指す〔〔西川寧 p.43、p.51〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「三筆」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Sanpitsu 」があります。




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