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平井 卓也(ひらい たくや、1958年1月25日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(6期)、自民党香川県連会長。 参議院副議長や郵政大臣を務めた元参議院議員の平井太郎は祖父。元労働大臣の平井卓志は父。四国新聞社社主平井温子は母。四国新聞社代表取締役CEO平井龍司は弟。元中京銀行会長富田信夫は叔父。妻と二男・一女。 == 来歴・人物 == 香川県高松市出身。高松第一高等学校、上智大学外国語学部英語学科を卒業。1980年上智大卒業後は電通に入社する。1986年に同社を退社、その後、1987年11月より1999年まで西日本放送代表取締役社長、1993年11月に丸亀平井美術館を設立・館長に就任、1995年4月より親族が経営する高松中央高等学校理事長を務めた〔より〕。 1996年、第41回総選挙に新進党公認で香川1区から出馬したが、自由民主党公認の現職・藤本孝雄に敗れる。続く2000年の第42回総選挙でも再び香川1区から出馬。無所属ながら自民党加藤派の支援を受けたことに加え、民主党・自由党が公認候補を擁立しなかったこともあり、自民党公認の藤本や社会民主党公認の元職・加藤繁秋らを破り初当選を飾った。当選後は森田健作が代表世話人を務める21世紀クラブに入会。 2000年の第2次森内閣不信任決議案をめぐる加藤の乱では不信任案に反対票を投じ、同年に自民党へ入党。2003年の第43回総選挙では初めて自民党の公認を得て香川1区から出馬し、民主党新人の小川淳也らを破って再選。なお前回香川1区で議席を争った藤本孝雄は比例四国ブロックに転出して落選、政界を引退した。続く2005年の第44回総選挙でも小川らを破り3選(小川も比例復活)。直後に発足した第3次小泉改造内閣では内閣府大臣政務官に、2007年8月に発足した安倍改造内閣と続く福田康夫内閣では国土交通副大臣に起用された。また2008年8月には自民党政務調査会副会長に就任した。 2009年の第45回総選挙では香川1区で小川に敗北したものの、重複立候補していた比例四国ブロックで復活し4選。選挙後には自民党広報戦略局長・IT戦略特命委員長に任命され、同年9月には自民党ネットメディア局局長となり、合わせて自民党ネットサポーターズクラブ(J-NSC)代表を兼任することになった。J-NSC代表としては、安倍晋三総裁にFacebookを介したネットユーザーとの交流を勧めたとされるほか、2013年に執行された第23回参院選に際し制作費1000万円を用いてスマートフォン向けゲーム「あべぴょん」を開発した。 2011年9月、自民党総務部会長(自由民主党シャドウ・キャビネット総務大臣)に就任した。2012年8月頃に松野頼久・松浪健太・小熊慎司ら超党派の国会議員と共同で「道州制型統治機構研究会」を発足。同会参加者の大半は日本維新の会の結成に加わったが、平井は自民党に残留した。同年9月に行われた自民党総裁選では林芳正の推薦人に名を連ねている〔2012年自由民主党総裁選挙及び林 芳正 | 総裁選基礎情報 | 自由民主党 を参照〕。 同年12月に執行された第46回総選挙では前回敗れた小川を香川1区で下し、5選(小川も比例復活)。直後の国会で衆議院内閣委員長に就任した。翌2013年は後述する他党党首への誹謗中傷事件や長男の器物損壊事件などの不祥事が相次いだ。2013年10月に内閣委員長および自民党ネットメディア局長・自民党ネットサポーターズクラブ代表を退任し、自民党IT戦略特命委員長に復帰した。 2014年12月に執行された第47回総選挙では香川1区で再び小川を下し、6選(小川は再び比例復活)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平井卓也」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Takuya Hirai 」があります。 スポンサード リンク
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