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平 伊望(たいら の これもち、元慶5年(881年) - 天慶2年11月16日(939年12月29日)は、平安時代前期の貴族。平高棟(高棟王)の子である惟範の次男で、桓武天皇の玄孫にあたる。母は、兄時望と同じ常陸太守四品兼守弾正尹人康親王の娘。子に、統理、善理、実望がいる。 == 経歴 == *寛平9年11月23日(897年12月20日)、従五位下に叙位。 *昌泰3年5月15日(900年6月14日)、尾張権守に任官。 *延喜5年4月5日(905年5月11日)、中務少輔に転任。 *延喜9年1月17日(909年2月10日)、従五位上に昇叙。中務少輔如元。 *延喜11年2月15日(911年3月18日)、勘解由長官〔或いは勘解由次官。〕を兼任。 *延喜13年4月15日(913年5月23日)、右兵衛佐を兼任。 *延喜16年 *3月20日(916年4月24日)、左衛門佐に遷任。 *9月23日(916年10月22日)、昇殿を聴される。 *延喜17年 *5月20日(917年6月12日)、左近衛権少将に転任。 *11月17日(918年1月12日)、正五位下に昇叙し、左近衛権少将如元。 *延喜18年正月12日(918年2月25日) 兼讃岐権介。 *延喜19年正月28日(919年3月3日) 轉左近衛権少将。 *延喜21年 *1月7日(921年2月17日)、従四位下に昇叙。左近衛権少将如元。 *1月30日(921年3月12日)、春宮〔醍醐天皇皇子・保明親王。〕亮を兼任。 *2月7日(921年3月19日)、昇殿を聴される。 *3月4日(921年4月14日)、蔵人頭に補任。左近衛権少将・春宮亮如元。※少将で蔵人頭と就る例。 *延喜22年1月30日(922年3月1日)〔或いは1月20日(922年2月19日)。〕、讃岐守を兼任。 *延長元年6月26日(923年8月11日)、式部権大輔を兼任。左近衛権少将如元。 *延長3年1月30日(925年2月25日)、中宮〔関白藤原基経の娘・醍醐天皇中宮・藤原穏子。〕権大夫を兼任。 *延長5年1月12日(927年2月16日)、参議に補任。中宮権大夫・式部権大輔如元。 *延長6年(925年) *1月7日(928年2月1日)、従四位上に昇叙し、参議・中宮権大夫・式部権大輔如元。 *1月29日(928年2月23日)、越前権守を兼任。 *6月9日(928年6月28日)、式部権大輔より式部大輔に転じ、兼任。 *延長8年(925年) *1月29日(930年3月2日)、備前守を兼任。越前権守の任替か? *月日不詳、中宮権大夫より中宮大夫に転じ、兼任。 *承平元年11月28日(932年1月8日)、中宮藤原穏子が皇太后になるに及び、中宮職は皇太后宮職とその名を変更し、これに伴い、皇太后宮大夫を兼任となるが、依然として、皇太后藤原穏子は、中宮を称える。 *承平2年 *1月7日(932年2月15日)、正四位下に昇叙し、参議・皇太后宮大夫・式部大輔・備前守如元。 *8月30日(932年10月2日)、式部大輔の兼任を止め、民部卿を兼任。 *承平3年10月24日(933年11月14日)、備前守の兼任を止め、伊予守を兼任。 *承平4年 *3月28日(934年5月14日)、正四位上に昇叙し、参議・皇太后宮大夫・民部卿・伊予守如元。 *12月21日(935年1月28日)、中納言に転任し、従三位に昇叙。民部卿・皇太后宮大夫如元。 *承平5年(935年)、皇太后宮大夫から、中宮大夫に官名変更。皇太后藤原穏子、中宮を称する所以。 *承平6年(936年)、撰国史所別当に補任。(いわゆる新国史編纂) *天慶元年6月23日(938年7月22日)、大納言に転任。民部卿・中宮大夫如元。 *天慶2年11月26日(939年12月29日)、薨去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平伊望」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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