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平塚 為広(ひらつか ためひろ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。大力で、薙刀の名手といわれる。 ==略歴== 父は三郎入道無心〔池田公一「大谷刑部関係人名事典」(花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』新人物往来社、2000年)261頁〕。三浦氏の一族であり、平塚郷を賜ったのを機に改姓したという〔宮野宣康「大谷刑部関係史跡事典」(花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』新人物往来社、2000年)278頁〕。通称は平九郎、因幡守〔池田公一「大谷刑部関係人名事典」(花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』新人物往来社、2000年)261頁〕。 秀吉の中国出陣時、秀吉から勘気を被り浪人になっていた平塚藤蔵が播磨の戦で黒田孝高に陣借りをし、高倉山城主福原助就を討ち取る手柄を立て再び秀吉に仕えたとし、この平塚藤蔵を為広とする〔「黒田家譜」:天正五年十二月五日付下村氏宛秀吉書状に「播州佐用内ニ敵城三ツ候、其内福原城より出人数、相防候、然者竹中半兵衛小寺官兵衛両人先ニ遣候処、於城下及一戦、数多討取候、我等者ニ平塚三郎兵衛と申者、城主討取候処、其弟助合候を同討取候」とあり、この平塚三郎兵衛を藤蔵=為広とする〕。 後に豊臣秀吉の家臣(馬廻)として仕え、小牧・長久手の戦いや小田原征伐に参加して武功を挙げた。天正20年(1592年)からの朝鮮出兵にも参加し、肥前名護屋城に駐屯した。文禄4年(1595年)7月、長年の忠義を認められて8000石を与えられた。慶長3年(1598年)、醍醐の花見にも秀吉の護衛として参加している。 秀吉死後は豊臣秀頼に仕え、慶長5年(1600年)には美濃垂井に1万2000石の所領を与えられた。同年の関ヶ原の戦い直前、徳川家康に対して挙兵しようとする石田三成を大谷吉継と共に佐和山城にて諫言したが聞き入れられず、西軍に与することとなった。伏見城攻めでは軍功を挙げている。のちに吉継に属し北国口の防備に加わり、8月4日(9月11日)には東軍の前田利長に備えるために北庄城に入る。8月下旬、吉継とともに美濃に南進、9月3日(10月9日)に関ヶ原の西南の山中村に着陣。9月14日(10月20日)、吉継より戸田勝成と共に小早川秀秋の動向を探り秀秋に裏切りの気配があれば暗殺するように密命を受けていたが秀秋に事前に暗殺計画を察知されたため、かなわなかったと言われている〔徳富蘇峰『近世日本国民史』より「關原役」〕。9月15日(10月21日)の関ヶ原本戦では、吉継に属して前備え360人を率い藤川の台に布陣、予想通り裏切った秀秋の部隊相手に奮戦し数度撃退したが、脇坂安治らの裏切りや藤堂隊、京極隊の攻撃に持ちこたえることができず壊滅状態になった。為広はなおも孤軍奮闘したが、山内一豊の家臣樫井太兵衛に討たれた。小早川秀秋の家臣横田小半介に討たれたとも言われる〔池田公一「大谷刑部関係人名事典」(花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』新人物往来社、2000年)261頁〕。死ぬ前に吉継に辞世の句(「名のために捨つる命は惜しからじ つひにとまらぬ浮世と思へば」)を送っている〔花ヶ前盛明「大谷刑部とその時代」(花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』新人物往来社、2000年)48頁〕。 子の庄兵衛も討死したという。また、為広と同様に怪力で知られた弟の平塚久賀は生け捕られ、徳川家康の前に引き立てられたが放免されている。 昭和15年(1940年)9月15日、為広の子孫である平塚定二郎が、為広が討ち死にした藤川の地に「平塚為広の墓碑」を建立した〔宮野宣康「大谷刑部関係史跡事典」(花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』新人物往来社、2000年)278-279頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平塚為広」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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