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平 季長(たいら の すえなが、生年未詳 - 寛平9年7月22日(897年8月23日)は、平安時代前期の貴族。桓武平氏高棟流、大納言・平高棟の四男。子に中興がいる。官位は従四位下・右大弁。 == 経歴 == 貞観13年(871年)に渤海使が来航すると、式部少丞であった季長はその接待にあたる掌渤海客使に任じられて、大内記・都言道(都良香)とともにこれに対応した(このときの位階は正六位上)〔『日本三代実録』貞観14年4月16日条〕。元慶年間初頭には兵部少輔兼伊勢権介の官職にあったが〔『日本三代実録』元慶2年8月20日条〕、元慶2年(878年)に発生した元慶の乱の終結後に右近衛権少将兼陸奥守に遷る。元慶6年(882年)従五位上〔『日本三代実録』元慶6年正月7日〕、元慶7年(883年)上野権介に叙任〔『日本三代実録』元慶7年正月11日戊寅〕。 菅原道真と早くから親交があり、仁和4年(888年)の阿衡事件(阿衡の紛議)の際にはともに意見書を提出している。その後、宇多天皇・源能有の側近として重用され、東大寺俗別当・右中弁・左中弁を歴任する。特に寛平7年(895年)に能有が五畿内諸国別当に任じられると、山城国問民苦使に任じられ、権門による土地兼併が激しい同国の実情を調査して地方行政の改革と農民救済策をまとめた。宇多天皇-源能有によって推進された寛平の治において、季長は菅原道真・藤原忠平とともにその実務を担った貴族官僚であったと考えられている。 寛平8年(896年)に従四位下・蔵人頭(右大弁・山城守兼務)に任じられ、翌年の醍醐天皇即位後も蔵人頭に留任した。宇多上皇が新帝に出した『寛平御遺誡』において、季長は「深熟公事(公務に精通した人物)」として、藤原時平・菅原道真・紀長谷雄とともに重用すべき人物として挙げられている。だが、醍醐天皇の即位からわずか9日後の寛平9年(897年)7月22日に急死。 菅原道真から「宮中要須之人也、聖主所照不更具陳」〔『菅家文章』〕と評価された季長の死は、前月の右大臣・源能有の死に続くもので、宇多上皇に大きな打撃を与えた。また、2人の相次ぐ死が菅原道真を結果的に政界の矢面に立たせることとなり、昌泰の変の遠因となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平季長」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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