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平 宗清(たいら の むねきよ)は、平安時代末期の武将。伊勢平氏の傍流、平季宗の子〔『尊卑分脈』。平正度の次男貞季の後裔にあたり、叔父に平家貞、従兄弟に平家継・貞能らがある。〕。 == 略歴 == 平頼盛の家人〔『愚管抄』5〕であり、頼盛が尾張守であった事から、その目代となる。永暦元年(1160年)2月、平治の乱に敗れ落ち延びた源頼朝を、美濃国内で捕縛し六波羅に送る。この際、頼盛の母である池禅尼を通じて頼朝の助命を求めたという〔『吾妻鏡』『平治物語』〕。 仁安元年(1166年)、正六位上で右衛門少尉となり、同3年(1169年)に左衛門権少尉となる〔『山槐記』『除目部類』『兵範記』〕。また、後白河院の北面武士となっており、院領であった大和国藤井庄(現在の奈良県山辺郡山添村付近)の預を務めたりもしている〔『吉記』『平安遺文』〕。 治承・寿永の乱で平家が都落ちした後の元暦元年(1184年)6月、頼朝は宗清を恩人として頼盛と共に鎌倉へ招いたが、これを武士の恥であるとして断り、平家一門のいる屋島へ向かった〔『吾妻鏡』『平家物語』〕。頼朝は頼盛から宗清が病で遅れると聞き、引出物を用意していたが、現れなかった事で落胆している。 子の家清は出家して都落ちには同行せず、元暦元年(1184年)7月に本拠伊勢国で三日平氏の乱を起こすが、鎌倉方に討ち取られている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平宗清」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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