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平 宗綱(たいら の むねつな)は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家の御内人。鎌倉幕府の侍所所司。第9代執権北条貞時の執事(内管領)として絶大な権勢を振るった平頼綱の嫡男。 == 概略 == 侍所所司として将軍惟康親王に侍する。侍所の別当は執権が兼任するが、執権と得宗が分離しているこの頃には得宗御内人が幕府の侍所所司となる制度となっており、その威勢は「関白のようだ」と『とはずがたり』に記されていれる。 正応2年(1289年)9月、得宗政権による将軍すげ替えのため、惟康親王が都へ送還される。その際、将軍は流人に対する扱いである後ろ向きの粗末な張輿に乗せられ、居所の御簾を土足の雑人が引き落とし、将軍権威の消滅を内外に示したが、宗綱はその有様に憤慨した。 父頼綱は次弟の飯沼資宗を鍾愛しており、宗綱とは不仲であったと見られる。『保暦間記』によると、宗綱は主君貞時に「父杲円(頼綱)は、次男の助宗と共に専権を振るい、いずれは助宗を将軍にしようとたくらんでいる」と讒言したという。正応6年(1293年)4月13日、鎌倉大地震に乗じた貞時の命により、頼綱邸に討手が差し向けられ、頼綱と助宗ら一族が滅ぼされた(平禅門の乱)。 合戦の前に出頭した宗綱は、自分は父とは「逆意」であると陳弁したが、佐渡国へ流された。しかしのちに召還されて内管領となっている。しかし『保暦間記』によれば再び罷免され、上総国へ再配流されたという。なおこの宗綱罷免には同族の長崎氏が関わっており、一旦宗綱配流の際に内管領となり、実権をほぼ掌握していた長崎氏に謀られての讒訴と言われる。その後は長崎氏の権力が得宗家内で絶大なものとなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平宗綱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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