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平山太郎 : ミニ英和和英辞書
平山太郎[ひらやま たろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 

平山太郎 : ウィキペディア日本語版
平山太郎[ひらやま たろう]

平山 太郎(ひらやま たろう〔松尾。〕、1849年7月24日嘉永2年6月5日) - 1891年明治24年)6月8日)は明治時代前半期の日本文部官僚。旧佐土原藩士体操伝習所筑波大学体育専門群の前身の一つ)主幹、東京図書館国立国会図書館の前身の一つ)館長、第五高等中学校熊本大学の前身の一つ)校長を歴任した。旧名徳太郎は武卓。は靖斎、蕉陰〔佐土原町史編纂委員会。〕。
== 来歴 ==
嘉永2年6月5日〔高森良人編纂 『竜南への郷愁 』 五高同窓会、1957年10月、154頁。〕(1849年7月24日)、平山武兵衛(は武尭)の子として日向国佐土原に生まれる。藩儒児玉平格に学んだのち鹿児島に遊学し、造士館射術を修めた。次いで重野安繹の門に入り、慶応3年(1867年)には江戸に上って水本樹堂に師事。その後昌平学校に進んだ〔。
明治2年(1869年)9月、藩命により米国で海軍学を修めるため、藩主島津忠寛の長男又之進(島津忠亮)、次男丸岡武郎(大村純雄)、藩士橋口宗儀とともに横浜を出港。はじめラトガース・カレッジのあるニュージャージー州ニューブランズウィックに滞在し、のちに島津とともにマサチューセッツ州ボストンに移った〔野口、72-73頁。〕。明治4年(1871年)7月に佐土原藩が廃藩となったのち、平山は海軍省の官費留学生に選ばれて学業を続けたが〔野口、73-74頁。〕、明治6年(1873年)12月の帰国命令を受け翌年10月に日本に戻った〔「留学生悉皆帰朝下命云々伺 」(国立公文書館所蔵 「公文録・明治六年・第五十九巻」)。「平山太郎帰朝之義御届 」(「公文録・明治七年・第二百九十二巻」)。〕。
帰国後は海軍省十等出仕となり、明治8年(1875年)6月に海軍中秘書に就任したものの、同年10月に免官となっている〔『太政官日誌』明治8年第83号、2頁 同誌明治8年第128号、2頁 。〕。明治10年(1877年)、内務省勧農局五等属となり〔『官員録』 1877年3月 。なお、翌年2月までの『官員録』に勧農局五等属として平山の名が確認できる。〕、明治11年(1878年)中には文部省学監事務所に勤務。同じくニューブランズウィックで学んだ経験のある折田彦市服部一三とともに、文部省顧問として来日していた前ラトガース・カレッジ教授ダビッド・モルレーの事務を助けた〔吉家定夫著 『日本国学監デイビッド・マレー : その生涯と業績』 玉川大学出版部、1998年1月、ISBN 4472111217、192頁、213-214頁。〕。モルレーの契約満期による学監事務所の廃止後は、明治12年(1879年)10月に音楽取調掛勤務となったのち文部一等属に進み、明治13年(1880年)4月から翌明治14年(1881年)4月まで体操伝習所主幹を務めた〔大久保利謙編 『明治文化資料叢書 第八巻 教育編』 風間書房、1961年12月、8頁。東京芸術大学音楽取調掛研究班編 『音楽教育成立への軌跡 : 音楽取調掛資料研究』 音楽之友社、1976年7月、93頁。「体操伝習所年報 」(『文部省第八年報』)、「体操伝習所第三年報 」(『文部省第九年報』)。〕。同年12月には東京図書館長に就任〔『東京日日新聞』第3021号、1882年1月10日、1面。〕。明治18年(1885年)6月、文部権大書記官に転じて学務二局兼編輯局勤務となり、11月から訓盲唖院長を兼務したが、12月に非職となった〔『官報』第577号、1885年6月3日、3頁 5-6頁 『東京盲唖学校一覧 明治廿二年末』 6頁 『官報』号外、1885年12月29日、3頁 。〕。
その後、明治19年(1886年)5月に第三高等中学校幹事として復職〔『官報』第864号、1886年5月21日、223頁 。〕。明治23年(1890年)2月には第五高等中学校長に就任するも、在職中の翌年6月8日、病のため熊本で死去した。享年43〔同誌第1985号、1890年2月14日、141頁 『官報』第2382号、1891年6月10日、131頁 。野口、76頁。〕。校長時代の功績としては新校舎開校式を挙行したこと、秋月胤永を教諭に招いたことが知られている〔吉田、33頁。〕。墓所は宮崎市佐土原町の明神山〔野口、76頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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