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平岡ひろし : ミニ英和和英辞書
平岡ひろし[ひらおか ひろし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm
: [こう, おか]
 【名詞】 1. hill 2. height 3. knoll 4. rising ground

平岡ひろし : ウィキペディア日本語版
平岡ひろし[ひらおか ひろし]

平岡 凞(ひらおか ひろし、1856年9月17日安政3年8月19日) - 1934年(昭和9年)5月6日)は、日本鉄道技師、野球選手・指導者(監督)、実業家、三味線の東明流の創始者〔新選大人名辞典 1938年 平凡社 p.267〕。芸名は平岡吟舟。
日本で最初の野球チーム創設者と言われているほか、日本初の民間鉄道車両メーカーである平岡工場の設立と経営に携わった。
== 人物 ==
田安徳川家の家老の家である〔『SL』NO.4、交友社、1972年、31頁〕 平岡凞一の長男として江戸に生まれる〔『人事興信録. 2版』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。孫には平岡精二ペギー葉山学生時代」の作詞・作曲などで知られる)、甥・姪には平岡養一シロフォン奏者)、平岡露子フィギュアスケート選手)がいる。1871年(明治4年)アメリカへ自費留学〔「渡米の名士無名士」外務省日誌 明治4年7月12日『新聞集成明治編年史第1巻』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕 したが中退して機関車工場に工員として働き、機関車・機械類製造技術のほかベースボールを修得し1876年(明治9年)に帰国した。平岡は工部省鉄道局に入り1886年(明治19年)に四等技師〔『改正官員録. 明治20年甲6月』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕 まで昇進するが独立して1890年(明治23年)匿名組合平岡工場を創業。1894年匿名組合を解散し個人経営の工場となる。1899年(明治32年)に創業した汽車製造の副社長〔「汽車製造会社設立」東京日日新聞 明治32年7月5日 『新聞集成明治編年史第10巻』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕 となるが1901年(明治34年)平岡工場は汽車製造に買収され汽車製造東京支店なる。
日本の野球の祖とされている〔「日本野球の元祖」時事新報 明治22年1月15日『新聞集成明治編年史第7巻』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。また、日本で初めてカーブを投げた人物とも言われており、アメリカ留学中にそれを習得した。「魔球」と呼ばれ、学生野球の投手たちがその投げ方を教わるために彼の元を訪れたといわれている。
1959年に野球殿堂入り〔平岡凞 殿堂入りリスト|公益財団法人野球殿堂博物館 〕。平岡の功績とその名を後世に伝えるため、2010年から全日本クラブ野球選手権大会
の優勝チームへ「平岡杯」が授与された〔全日本クラブ野球選手権 日本野球連盟(JABA) 〕。
また留学中から歌曲と親しみ帰国後も小唄、常磐津、清元、長唄、義太夫などをこなし踊りの振り付けにも凝った。特に小唄を得意とし吟舟と称した。また歌舞伎関係者らとすたれていた河東節の再興につとめた〔「平岡大尽が河東節の尻押」毎日新聞 明治29年5月13日『新聞集成明治編年史第9巻』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。さらに東明流を編み出しその家元となった。1912年には一切の職から引退すると三味線三昧の生活をおくり気前よく散在し花柳界では平岡大尽として知られていた〔沢和哉「日本の鉄道こぼれ話」築地書館、208-210頁〕。1934年に亡くなった時は遺族には生活費以上のものを残さなかったという〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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