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平岡 紀子(ひらおか のりこ、1959年(昭和34年)6月2日 - )は、日本の演出家。父は三島由紀夫。母は平岡瑤子〔有元伸子「平岡家」()〕。結婚後は、冨田紀子となった〔「年譜 平成10年」()〕。三島没後20年に、三島の戯曲『葵上』『弱法師』の演出を手がけ〔「年譜 平成2年1月17日」()〕、母親の死後は、弟・威一郎と共に三島の著作権保護に努めた〔。 == 略歴 == 1959年(昭和34年)6月2日、父・三島由紀夫(本名:平岡公威)と母・瑤子(旧姓:杉山)の長女として誕生〔。午後19時頃、虎の門病院に駆けつけた三島は、新生児室のガラス越しに初めての我が子を見る〔齋藤康一「ファインダーの中の三島さん」(月報)〕〔「昭和34年6月、長女紀子誕生、虎ノ門病院にて」()〕。6月8日のお七夜で「紀子」と命名された〔「裸体と衣裳――日記」(新潮 1958年4月号-1959年9月号)。〕。三島はもともと「尹」と名付けたかったが、当用漢字にないので諦め、その代わりに後に書かれる小説『宴のあと』(1960年)の登場人物に沢村尹と名付けたとされる〔「第三章 薔薇の痙攣」()〕。 3年後に誕生した弟・威一郎と共に、大田区馬込東1丁目1333番地(現・南馬込4丁目32-8)の家で育った紀子は〔「わが育児論」()〕〔「昭和40年、自邸にて、家族とともに」()〕、学習院幼稚園から学習院初等科に通った。皇太子徳仁親王とは学習院幼稚園と初等科で同級生であった。1964年(昭和39年)12月の幼稚園クリスマス会では、父・三島が潤色した『ちびくろさんぼのぼうけん』、1965年(昭和40年)12月には、同じく三島と母・瑤子の潤色の『舌切雀』が上演された〔「年譜 昭和39年12月」()〕〔「年譜 昭和51年7月中旬」()〕。 その後、学習院女子中等科、学習院女子高等科を経て、1982年(昭和57年)3月20日、学習院大学文学部仏文科卒業した〔「昭和57年3月20日」()〕。 三島没後20年にあたる1990年(平成2年)1月には、三島の戯曲『葵上』と『弱法師』を舞踊劇にプロデュース・演出をし〔、同年9月24日には、外交官の冨田浩司と結婚。外交官夫人としてシンガポールに駐在し、子供を産んだ〔「年譜 平成2年9月24日」()〕〔「終章」()〕。 母・瑤子の死後、三島との愛人関係を描いた福島次郎の小説『剣と寒紅』が1998年(平成10年)に出版されたが、その著書の中で福島が三島の書簡を無断公表したことに対して紀子は、著作権侵害の故を以て同書の出版差し止めを求め、弟の平岡威一郎と共に福島および文藝春秋を東京地方裁判所に提訴し、2000年(平成12年)5月23日に勝訴が確定した〔「年譜 平成10年」()〕〔「年譜 平成12年5月23日」()〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平岡紀子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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