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平岡 美津子(ひらおか みつこ、1928年(昭和3年)2月23日 - 1945年(昭和20年)10月23日)は、三島由紀夫の妹〔有元伸子「平岡家」()〕。17歳で病死し、その死の痛手が青年時代の三島由紀夫の執筆活動に大きな影響を与えた〔「終末感からの出発――昭和二十年の自画像」(新潮 1955年8月号)。〕〔「III 死の栄光――死の世界の再現」()〕〔越次倶子「平岡美津子」()〕。三島の小説や戯曲には、妹をモデル、または投影させた作品が少なからず散見されている〔「III」(オール讀物 1987年6月号)。〕〔。 == 生涯 == 1928年(昭和3年)2月23日、東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷4丁目22番)に、父・平岡梓(農商務官僚)と母・倭文重(漢学者・橋健三の次女)との間に長女として誕生〔「年譜 昭和3年2月23日」()〕。3歳上に、1925年(大正14年)1月14日生まれの兄・公威(のちの三島由紀夫)がいた。1930年(昭和5年)1月19日に弟・千之が生まれる〔「年譜 昭和5年」()〕。 1933年(昭和8年)8月、美津子が5歳の時に祖父母の定太郎となつが2、3軒離れた四谷区西信濃町16番地(現・新宿区信濃町8)の借家に住むことになり、8歳の兄・公威がそこへ移り、美津子や千之、両親と別居することになった〔「年譜 昭和8年8月」()〕〔「第一章」()〕。 1937年(昭和12年)4月上旬、美津子が9歳の時に両親が渋谷区大山町15番地(現・渋谷区松濤2丁目4番8号)の西洋館風2階建ての借家へ転居するのを機に、12歳の兄・公威もそちらに伴うことになり、美津子や千之と同居することになった〔「年譜 昭和12年4月」()〕〔。 1944年(昭和19年)3月、4月、16歳の美津子は、19歳の兄・公威と歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』『大楠公の最期』『大楠公夫人』『二人袴』などを見に行くなど、仲がいい兄妹であった〔「芝居日記 19年」(1944年執筆。マリ・クレール 1989年10月号-1990年2月号)。〕〔「年譜 昭和19年」()〕。1945年(昭和20年)1月10日から東京帝国大学勤労報国隊として群馬県の中島飛行機小泉製作所に勤労動員された兄・公威への手紙でも、芝居を一緒に見にゆくことを綴ったり、普段はお転婆だったが、しおらしく「ワイシャツによいものを同封したとか、ホロリとするやうなこと」を書いたり、兄に頼まれ、兄の愛猫「デコ」の面倒を代りに見ていた〔「平岡美津子・千之宛ての葉書」(昭和20年1月23日付)。〕。 三輪田高等女学校(現・三輪田学園中学校・高等学校)を経て、聖心女子学院専門部在学中だった1945年(昭和20年)10月10日、17歳の美津子は、学徒動員で疎開されていた図書館の本の運搬作業中、菌を含んだなま水を飲んだのが原因で腸チフスを発病する〔。同時に発病した学友が5、6人いたが、美津子だけが重篤となった〔「第三章」()〕。母・倭文重と公威が交代で看病するが、同月23日、大久保町の避病院(東京都立大久保病院)で死去。兄・公威は号泣した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平岡美津子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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