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平川 惟一(ひらかわ のぶかず、1849年5月1日(嘉永2年4月9日) - 1877年(明治10年)3月3日)は日本の武士肥後藩士・陸軍軍人・自由民権運動家である。変則第五番中学校の創立に関わり校長を務め、熊本協同隊の隊長〔佐々友房『戦袍日記』明治24年再版(青潮社、 1986年)14頁引用 以テ勝ッコトヲ得タリト、衆人大二其ノ智勇ヲ感賞ス、熊本協同隊モ亦山鹿方面二向ヒ、薩兵ヲ助ケテ頗ル盡力ス、協同隊從来熊本二一黨派ァリ民権黨ト云フ、平川覚次郎、宮崎八郎、崎村常雄等是レガ魁タリ、平川覚次郎小隊長トナリ、..〕として西南戦争で西郷隆盛率いる薩軍を支援し、29歳にして志半ばで戦死した。 == 生涯 == 肥後細川藩の藩士平川文助の子〔『新撰大人名辭典』第5巻(平凡社、1942年) 81頁〕として代々百石取りの一族の家に生まれる。諱は惟一、通称は覚次郎という〔上村希美雄『宮崎兄弟伝日本篇』 第1巻(葦書房、1984年)43頁〕。撃剣柔術は山東彌平太の門に学び、二天一流剣術、楊心流柔術を修め、武名一藩に聞こえた。時習館に学び敬神尊王の主義を唱う敬神党に属するが、明治維新後1868年(明治元年)藩命を帯びて、佐賀へ遊学し2年して帰る。この際、石井貞興と交流があり、並んだ写真が残っている。『征韓論』を主として唱えるとともに敬神党から次第に離れ、ルソーの『社会契約論』の部分訳である中江兆民の『民約論』に強い影響を受け、終生これを広める〔古閑俊雄・高野和人『戰袍日記』全(青潮社、1986年)4頁引用 平川惟一等征韓論を主唱し、後社会民約の説を尊崇す。之を肥明治六、七年の際、民権党なる者起る。崎村常雄、宮崎真郷、諸氏別に敬神尊王の主義を唱う。人之を敬神党と称す。降ての一半は学校党と相結託す。自餘の勤王党大田黒伴雄、加屋霽堅を掌握せり...〕。1870年(明治3年)藩命により有馬源内等とともに伏見の屯営(陸軍下士養成所)に入り、1872年(明治5年)陸軍中尉となる。1873年(明治6年)『征韓論』の破裂により野に下り、熊本県飽田郡百貫村に帰農した〔陸上自衛隊北熊本修親会『新編西南戦史』(原書房・明治百年史叢書、1977年)498頁〕。1874年(明治7年)佐賀の乱の後、有馬源内、宮崎八郎等と台湾出兵に志願し従軍するが、負傷して帰国〔荒木精之『宮崎八郎』(日本談義社、1954年)63頁〕。1875年(明治8年)4月26日、広田尚、宮崎八郎、有馬源内、松山守善、崎村常雄らと植木町に、変則熊本第五番中学校(通称:植木学校)を設立し校長兼舎監を務める。『民約論』を中心とした様々な授業を行い、自由民権を唱え各地で集会を開き実践するが、急進すぎると県からの補助金を打ち切られ同年10月末で閉校する。1876年(明治9年)年末、民権党同志の中で薩摩の桐野利秋や篠原国幹とかねて面識のあった有馬源内を通じて情勢を打診〔古閑俊雄・高野和人『戰袍日記』全(青潮社、1986年)2頁引用 明治九年末、有馬源内は鹿児島に行き、かねて面識の桐野利秋や篠原国幹に会い情勢を打診して、崎村常雄、平川惟一、宮崎八郎などの同志に謀って、薩軍の北上を待っていたが、いよいよ薩軍が川尻に到着した二月二十曰、保田窪神社に参集して協同隊...〕。1877年(明治10年)鹿児島県で西郷隆盛の私学校が挙兵すると、植木学校出身者を中心とした民権党の同志と熊本協同隊〔松岡正剛の千夜千冊、1168夜、2006年12月30日〕を結成し、2月21日に北上してきた薩軍に川尻で合流、四番大隊大隊長の桐野利秋のもとで協同隊を指揮し共に政府軍を相手に戦った。資料によってバラつきはあるが、土着の志願兵も含めて300人から500人とされる熊本協同隊の総隊長に抜擢された平川惟一は、それまでの身分や家柄ではなく自由民権思想に則り、協同隊士での選挙で決定するという、当時としては先進的な方式で選任された隊長だった〔熊本女子大学郷土文化研究所『熊本県史料集成』第13巻-西南役と熊本-(国書刊行会1985年) 110頁引用 是より先、平川惟一、宮崎八郎等、諸同志を出町学校に会し、隊伍を編成し、名付けて協同隊と称し、隊長以下、専ら投票を以て之を選任したり。而して平川は、小隊長を以て総指揮長たり。宮崎は、本営附を以て参謀長の位置を占めたりき。〕。3月3日、車坂の戦いにおいて熊本県山鹿市鍋田口付近で流弾に当たり戦死した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平川惟一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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