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平 成輔 (たいら の なりすけ)は、鎌倉時代末期の公卿。権中納言平惟輔の子。後醍醐天皇の討幕計画に参加したが、鎌倉幕府に拘束されて斬罪に処された。邸宅地に因んで家名を烏丸と号する。また平宰相とも号した。 == 経歴 == 左衛門権佐・五位蔵人・兵部権少輔などを経た後、弁官として昇進。元亨4年(1324年)4月蔵人頭・中宮亮に任じられる。正中の変直後の10月に辞職し、所労と称して籠居したが、花園上皇は「実事にあらざるか。諸人不審」〔『花園天皇宸記』元亨4年10月30日条(原漢文)〕と訝しんでいる。嘉暦2年(1327年)参議として公卿に列し、治部卿と弾正大弼を兼任。同3年(1328年)1月従三位に叙され、3月丹波権守を兼ねた。元徳2年(1330年)1月正三位に叙されるも、間もなく父惟輔の喪に遭って参議を辞している。 後醍醐天皇の討幕の密議には、日野資朝・日野俊基・四条隆資・花山院師賢とともに参加。同年(1330年)4月清水寺で大判事中原章房が暗殺されたが、これは、章房が討幕について諫奏したため、密議の漏洩を恐れた天皇の密命により、成輔が瀬尾兵衛太郎を刺客として殺害させたものという〔島津家本・吉川家本・今川家本『太平記』巻1〕。元弘元年/元徳3年(1331年)討幕計画が露見したため(元弘の変)、8月24日天皇は京都を脱出して奈良に潜幸。これに供奉しなかった成輔は、翌25日六波羅探題により拘束され、丹後前司(長井宗衡か)の許へ預けられる。元弘2年/正慶元年(1332年)4月幕府から斬罪の処分が伝えられると、翌月河越円重に従って鎌倉へ護送され、その途次の相模早川尻(伊豆早川宿とも)で梟首された。享年42。 子の行輔は南朝に仕えたと思われるが〔『吉野拾遺』下に「平三位行輔卿」として登場する。〕、明確な史料がないため、経歴など詳しいことは不明である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平成輔」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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