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平 時忠(たいら の ときただ)は、平安時代末期の公家。桓武平氏高棟流、いわゆる堂上平氏の生まれ。父は兵部権大輔・平時信。母は二条大宮(令子内親王)の半物(はしたもの、下仕えの女房)をしていた女性(氏素性は未詳)。平清盛の継室である平時子の同母弟。後白河法皇の寵妃で高倉天皇の母・建春門院は異母妹にあたる。平大納言、平関白と称された。また、平家の滅亡後も生き延びている。なお、いわゆる「平家にあらずんば人にあらず」とはこの時忠の発言である(詳細は後述)。 == 生涯 == === 生い立ち === 時忠の母については『吉記』に、二条大宮(令子内親王)に仕えた半物であったことが記されている〔『吉記』治承5年(1181年)5月28日条〕。この女性は時信との間に、時忠・時子・藤原親隆の室を産んだ。やがて時信との関係は疎遠となり、右少弁・藤原顕憲と再婚して法勝寺執行・能円を産む。顕憲の死後、時忠と時子は母を引き取って孝養を尽くしたという。 時忠と時子の年齢については、『兵範記』の清盛出家の記事の中に「相国今年五十一、二品四十三云々」〔『兵範記』仁安3年(1168年)2月11日条〕 とあることから、時子は大治元年(1126年)生まれとなる。記主の平信範は時子の叔父なので信憑性は高い。時忠は『公卿補任』記載の年齢から逆算すれば、大治5年(1130年)生まれである。しかし『吾妻鏡』には、時忠の薨去を聞いた源頼朝が周囲の者に年齢を尋ねたところ、62歳という返事があったと記されている〔『吾妻鏡』文治5年(1189年)3月5日条〕。これによれば、時忠は大治3年(1128年)生まれとなる。時忠の生年は確定できないが、いずれにしても時子が年長である。『保暦間記』にも「平大納言時忠ト申ハ、太政入道ノ北方二位殿ノ弟也」とある。 久安2年(1146年)3月、17歳で非蔵人、翌年正月に六位蔵人となる。久安4年(1148年)から翌年にかけて検非違使・左衛門少尉となる。久安5年(1149年)4月に叙爵して、蔵人・検非違使の任を離れた〔非蔵人から六位蔵人となる階層の人物はその階層で生涯を終えるのが通例だった。父の時信が五位止まりで、母の身分も低いことから、時忠も本来ならそれ以上の昇進は望めなかった。〕。仁平4年(1154年)8月8日の鳥羽法皇による新御堂法会・仏像安置の儀式に、時忠は平清盛と共に院司として列席している〔『兵範記』〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平時忠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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