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平瀬トンネル(びょうぜトンネル、びょうのせトンネル)は、東日本旅客鉄道(JR東日本)磐越西線の日出谷駅 - 鹿瀬駅間にあり、引入沢山を貫く全長2,006 mの鉄道トンネルである。新潟県東蒲原郡阿賀町に位置する。 == 建設 == 西口(鹿瀬側)は地質軟弱で崩壊、東口(日出谷側)は堅硬な凝灰岩で湧水量が多いなど〔『日本国有鉄道百年史 6』82頁〕、難工事で36か月の工期を要して、1914年(大正3年)11月に完成し、これにより磐越西線(当時岩越線)は全通した。日出谷側上部に「焉興蔵宝」(右から左に読んで「ほうぞうこうえん」)、鹿瀬側上部に「焉殖財貨」(同じく「かざいしょくえん」)と書かれた、鉄道院総裁であった後藤新平の揮毫による石碑が掲げられている(トンネル完成時点での総裁は床次竹二郎)。これは、「宝の蔵が開かれて財貨が増える」という意味である。 このトンネルは、内部が標準軌用の断面になっており、当時盛んに議論されていた改軌に関連して、日本の鉄道網を標準軌に改築するための準備工事の一端であるとされている。 トンネル建設工事の一部を請け負った太田組社長梅野実〔明治29年東京帝国大学工学部土木科卒業後九州鉄道に入り主任技師として鉄道建設に従事、国有化後太田組に入社。その後満鉄に入社し理事に就任。撫順炭鉱の開発をてがけた。戦後ブリヂストンタイヤ顧問、九州朝日放送相談役等に就任し久留米市名誉市民となる。(『鉄道先人録』61-62頁より)〕によれば、当初は狭軌で建設を進めたが、改軌論者の後藤新平が総裁になって標準軌で工事する指示が出され、さらに次の総裁の床次竹二郎が改軌の中止を命じて再度狭軌での工事になり完成したため、入口と出口が狭軌用断面で中央部が標準軌用断面になったという〔『国鉄繁盛記』p.160、十河信二伝刊行会「十河信二」p.170 「鉄路のデザイン」からの孫引き〕。 東口から7チェーン(約141 m)、西口から9チェーン(約181 m)は従来からの単線断面トンネルで、中央の1マイル3チェーン72リンク(約1,684 m)は標準軌用断面となっている。用いられたのは広軌隧道定規という断面で、従来より高さが3フィート(約914 mm)、幅が1フィート6インチ(約457 mm)拡大されて、断面積が約1.3倍となっている。最大幅5,030 mm、施工基面からの天井高さは5,945 mmである〔『ゲージの鉄道学』pp.127 - 128〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平瀬トンネル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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