|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 平 : [たいら, ひら] 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm ・ 田 : [た] 【名詞】 1. rice field ・ 禿 : [かぶろ, はげ] 【名詞】 1. baldness ・ 木 : [き] 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber
平田 禿木(ひらた とくぼく、1873年(明治6年)2月10日 - 1943年(昭和18年)3月13日)は、英文学者、翻訳家、随筆家。 == 生涯 == 本名は平田喜一。喜十郎・みきの長男として、日本橋伊勢町(現・東京都中央区日本橋本町一丁目に生まれた。家業は染料・薬品の輸入商。未熟児だったので、街なかより田園の方がと、大宮の母方の叔父、永田荘作方で育った。叔父は蔵書家だった。 1884年(明治17年)、共立学校に入り、やがて同人雑誌を出すなどした。1887年(明治20年)、町内の星野天知と洗礼を受けたものの、キリスト教熱は一時的だった。実家と大宮を往復するように暮らした。 1890年(明治23年)、第一高等学校に進み、ウォルター・ペイターの『文芸復興』にめぐり会い、その芸術至上主義の感化を受けた。さらに、バイロン、シェイクスピア、テニソン、また、山家集、徒然草なども耽読し、1893年(明治26年)、同人に加わって興した文学界誌の創刊号に『吉田兼好』を載せた〔文学界掲載稿の一部は、『筑摩書房 明治文学全集32(1977)』に収録されている〕。 数学が駄目で、1895年(明治28年)に第一高等学校から東京高等師範学校英語専修科へ移った。英語は既に抜群だった。 1898年(明治31年)から約3年、母校の附属中学の教員を勤めた。旧知のフェノロサと同僚になり、その能楽研究を助けた。1901年(明治34年)からは、本校の教師になった。文学熱が戻り、『太陽』誌・『明星』誌などに寄稿した。 1903年(明治36年)から3年間、文部省留学生としてオックスフォード大学に留学し、島村抱月・下村観山・三土忠造・和田英作らを知った。 帰国後は、東京高等師範学校・女子学習院・明治大学英語専修科・第三高等学校で、転々と教鞭を執り、その間の1907年(明治40年)、水野恵音と結婚して一女をもうけた。恵音は1909年(明治42年)に亡くなり、1911年(明治44年)に恵音の妹三津と再婚して、のち一女六男を得た。しだいに文壇から遠ざかり英文学者として生活し、書斎に籠もるようになった。英語青年誌との縁を深くした。 1914年(大正3年)(41歳)以降、多くの英文学の翻訳を国民文庫研究会から出版した→(翻訳)。1918年(大正7年)、『英語文学』を創刊し、戸川秋骨・竹友藻風・山宮允・野口米次郎・日夏耿之介・辻潤・生田長江らが執筆したが、1921年(大正10年)で終わった。 1934年(昭和9年)以降、請われて法政大学で週一度講義した。1943年3月13日に亡くなった。墓は、東京都墨田区両国二丁目の両国回向院にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平田禿木」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|