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平田 靱負(ひらた ゆきえ)は、江戸時代中期の薩摩藩家老。宝暦3年(1753年)の木曽三川分流工事(宝暦治水事件)の責任者。父は平田正房、母は島津準3男家の島津助之丞忠守の娘。諱は宗武のち、宗輔、正輔。通称は初め次郎兵衛のち、新左衛門、掃部、靱負。宝暦治水の責任をとって自害したとされる〔但し、日本文化学者・金城大学名誉教授の中西達治は、自著『宝暦治水と平田靱負〜史実と顕彰の歩み』(あるむ、2015年7月発行、ISBN 9784863331006)において、平田靭負の切腹を否定する説を展開している。〕後に、孫の平田袈裟次郎が家督相続する(「平田靱負関係資料」参照)。その時の石高は533石(「嶋津家分限帳」参照)。 == 宝暦治水以前の経歴 == :以下は鹿児島県立図書館所蔵の「平田靱負関係資料集」の『平田氏系図』参照 *正徳2年(1712年)4月15日:島津吉貴の加冠をうけて元服し、平蔵から兵十郎に改名。 *享保2年(1717年):藩法により、将軍徳川吉宗の諱の字を避け、諱を「正輔」と改名。 *享保14年(1729年)12月25日:物頭に就任。なお、当時の物頭には示現流剣術高弟である薬丸兼慶がいた。 *享保20年(1735年):この年の旧暦2月2日に父の隠居により家督相続。また同年、日向国諸県郡馬関郷地頭兼任。なお、当時の通称を次郎兵衛に改名していた。 *元文4年(1739年)1月11日:御用人に就任。 *元文6年(1741年)2月21日:日向国諸県郡勝岡郷地頭に転じる。 *寛保3年(1743年)6月7日:大目付に就任。 *寛保4年(1744年)1月11日:薩摩国阿多郡伊作郷《現在の日置市吹上町》地頭に転じる。当時の通称は新左衛門に改名していた。 *延享5年(1748年)1月21日:島津宗信より家老に任じられ、同時に薩摩国伊佐郡大口郷《現在の伊佐市大口地区》地頭職兼務。両方とも死去まで勤める。この任期中、通称を新左衛門から掃部、靱負の順に改める。また、職田1千石を賜る。 *寛延元年(1748年)9月9日:宗信の江戸上府に琉球王国の尚敬王の慶賀使が同行するが、この引率を命じられ、この日、鹿児島城下を発つ。 *同年11月11日:この日、芝藩邸に入る。また、11月15日に江戸城に登城し、将軍徳川家重に拝謁し、さらに慶賀使正使の具志川王子とともに徳川家治に拝謁。 *寛延4年(1751年)4月15日:4月に宗信が帰藩したために江戸留守家老となり、この日に再度、徳川家重、家治親子に拝謁。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平田靱負」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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