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平 盛俊(たいら の もりとし)は、平安時代末期の武将。伊勢国一志郡須賀郷を基盤とする伊勢平氏に連なる有力家人。「彼の家、第一の勇士」(『玉葉』寿永2年6月5日条)といわれた。 == 生涯 == === 平氏の侍大将 === 剛力の持ち主として有名で〔「六七十人して揚げ落ろす舟を、ただ一人しておしあげおしおろす程の大力なり」(『平家物語』)、「盛俊ト云チカラアル郎従」(『愚管抄』)〕、平清盛の政所別当を務めるなど実務にも長じていた(『平安遺文』3891)。清盛からの信頼も厚く、厳島内侍を妻として賜ったという逸話もある(『源平盛衰記』)。安元元年(1175年)には越中守に在任していた(『山槐記』8月16日条)〔在任期間は不明だが、『百錬抄』治承3年11月20日条に「前越中守盛俊」と記されている。〕。鹿ケ谷の陰謀では清盛の命で、首謀者の藤原成親を捕縛している(『愚管抄』)。 治承4年(1180年)10月、富士川の戦いで追討軍が敗走すると、全国各地で反乱が激化する。12月になると平氏は反撃を開始し、、近江国に精鋭部隊を送り込んだ(近江攻防)。盛俊も侍大将として平清房に付き従い、園城寺を攻撃する。戦闘で金堂に火が燃え移ったが、盛俊は迅速な措置で消し止めた(『玉葉』『山槐記』12月9~12日条)。 畿内の反乱はひとまず鎮圧されたが、治承5年(1181年)正月に高倉上皇、閏2月に清盛が相次いで死去する。平氏政権は清盛の三男・平宗盛が畿内惣官となって戦時体制を構築するが、その一環として盛俊は、丹波国諸荘園惣下司に補任された(『玉葉』2月7日条)。小松家(清盛の長男・平重盛の家系)の家人である伊藤忠清や平貞能が遠征軍の司令官として前線に飛ばされたのに対して、盛俊は宗盛ら一門主流に近い立場にあり平氏の軍制の中核となった。 寿永2年(1183年)4月17日、清盛の嫡孫で重盛の嫡男・平維盛を総大将とする10万騎とも言われる大軍が北陸道に下向する(『百錬抄』)〔『玉葉』6月5日条は、北陸追討軍を4万余騎とする。〕。養和の北陸出兵をはるかに上回る規模の動員であり、盛俊も従軍した。平氏軍は緒戦で勝利するが(火打城の戦い)、5月9日明け方に般若野(はんにゃの、現・富山県高岡市南部から砺波市東部)の地で兵を休めていた平氏軍先遣隊・盛俊の軍が、木曾義仲軍の先遣隊である義仲四天王の一人・今井兼平軍に奇襲されて戦況不利に陥り、平氏軍は一旦加賀国へ退却する(般若野の戦い)。 ここで平氏は軍を二手に分け、平維盛・通盛が率いる本隊は加賀国と越中国の国境にある砺波山へ、盛俊が率いる別働隊は能登国と越中の国境にある志保山へ進軍した〔『平家物語』読み本系の「延慶本」「四部本」は盛俊が別働隊を率いたとするが、語り本系では本隊に同行している。〕。しかし5月11日、砺波山に向かった平氏軍本隊は義仲軍との戦闘で「過半死し了んぬ」という大敗を喫する(倶利伽羅峠の戦い)。志保山で源行家と対峙していた盛俊も、本隊の壊滅で退却を余儀なくされる。6月1日、平氏は残存兵力を結集して再び決戦を挑むが、義仲軍の勢いを食い止めることはできず総崩れとなった(篠原の戦い)。敗戦の理由として『玉葉』6月5日条は、大将軍(維盛)と三人の侍大将(盛俊・景家・忠経)が権盛を相争ったためと記している。盛俊・景家は宗盛の家人、忠経は維盛の小松家の家人であり、一門主流と小松家の確執が指揮系統の混乱を招いた可能性もある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平盛俊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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