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平 真樹(たいらの まき/まさき 生没年未詳)は、平安時代中期の荘園領主・豪族である。常陸国、新治郡の土豪であったとされる。平氏の姓を冠しているが、同地域の高望王系の平氏としては確認できない。平将門にとっては「強力な同盟者」という評価があり、真樹の娘は将門の妻(君の御前)として嫁いだとされている。 == 概説 == 新治郡にある大国玉に住む領主で、真壁・新治・筑波の広い範囲に領地を保有していたといわれ、源護と土地を巡る確執から度々争っていたとされる。真樹はこの紛争の調停を将門に頼み、将門はそれを受けて真樹を援護した(平真樹が源護に敗れてしまうと今度は自らの領地が危うくなる可能性が高いので、しぶしぶ承知したともいわれる。)〔『歴代皇紀』の「将門合戦状」には、「次被語平真樹、承平五年二月与平国香並源護合戦」とあり、この紛争の中心人物であったと見られる。〕。これにより護と姻戚関係である伯父平国香らが護側の味方であったので、元々因縁があったとされる伯父らと更に深く対立する事となり、そしてついには護の子である源扶・源隆・源繁らが将門を襲撃、将門と一族・源家との争いは益々激しさを増していく事となってしまう。 承平6年(936年)、護は朝廷に将門と真樹についての告状を提出し、朝廷はこれにもとづいて真樹らに召喚の官符を発したが、承平7年(937年)4月7日の朱雀天皇元服の大赦によって全ての罪を赦されて真樹らは帰国する。後の承平7年(937年)9月23日には、将門と共に弓袋山で平良兼と戦った。『将門記』にはこの戦いの前に将門が良兼に敗戦した際に「妻子が殺された」とあり〔「妻子同ジク共ニ討チ取ラレヌ。」〕、これが真樹の娘であったとする説がある。〔赤城宗徳 『将門記』真福寺本評釈〕 平真樹が治めた荘園の中心地付近には、大国玉神社があり、館跡があったという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平真樹」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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