|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 平 : [たいら, ひら] 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm ・ 禅 : [ぜん] 【名詞】 1. Zen (Buddhism) ・ 禅門 : [ぜんもん] 【名詞】 1. Zen 2. entering the path of Zen ・ 門 : [もん] 1. (n,n-suf) (1) gate 2. (2) counter for cannons
平 頼綱(たいら の よりつな)は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家の御内人。鎌倉幕府8代執権北条時宗・9代執権北条貞時の執事で、貞時の乳母父。父は歴代執権の執事を務めた平盛時〔頼綱の職務は盛綱の後継者と呼べるものだが、盛綱の卒去と頼綱の政治活動開始まで間隔が空きすぎるため、頼綱の父は盛時で、盛時が盛綱の子、盛綱は頼綱の祖父と推定される(細川重男説)。〕。 御内人の筆頭格として時宗の専制体制を補佐した。時宗死後に対立した有力御家人の安達泰盛を霜月騒動で滅ぼし、内管領として時宗の嫡子貞時を擁し幕府内外で絶大な権勢を振るうが、頼綱の恐怖政治に不安を抱いた貞時の命によって誅殺された(平禅門の乱)。 == 生涯 == === 時宗執事 === 頼綱の家系は平資盛を祖と称するが、これは仮冒された系譜であるとされ、実際は平姓関氏の流れとする。伊豆国出身で古くからの北条家家臣の一族と見られる。頼綱は代々北条氏嫡流の得宗家に仕える御内人として時宗に仕え、時宗の命を実行に移す役割を担っていた。弘長元年(1261年)の頃に父盛時から侍所所司を継承し、文永9年(1272年)以前には得宗家の執事となっている。 生年は明確に分かってはいないが、次男資宗が文永4年(1267年)の生まれであることから、仁治元年(1240年)頃に生まれたのではないかとされる〔森幸夫「平頼綱と公家政権」(『三浦古文化』54号、1994年)。森は資宗の生年を文永3年(1266年)としているが、弘安2年(1279年)9月に発生した鎌倉期日蓮宗弾圧として著名な熱原法難を伝える『弟子分帳』に「飯沼判官十三歳」(数え年)とある(細川、2000年、P.183)ことから、逆算すると生年は文永4年(1267年)が正確である。〕。その場合、泰盛と時宗の中間の世代に相当し、建長8年(1256年=康元に改元)まで執権であった北条時頼の偏諱(「頼」の字)を受けて元服したものと判断される。『吾妻鏡』では建長8年1月4日条の「平新左衛門三郎」を初見として4回登場する〔『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)による。登場箇所は、建長8年正月4日・9日条「平新左衛門三郎」、正嘉2年(1258年)1月11日条「平新左衛門三郎頼綱」、弘長3年(1263年)正月1日条「平新左衛門尉頼綱」の4箇所である。〕。 文永8年(1271年)9月、元寇に際して御家人に鎮西下向の命が下される中、頼綱は他宗攻撃と幕府批判を行っていた日蓮の逮捕・佐渡国への流罪、門徒の弾圧を行った。この時に日蓮が頼綱に宛てた書状では、頼綱を「天下の棟梁」と書いている。日蓮は斬首に処される所を直前で回避されているが、これは時宗の妻(堀内殿)の懐妊と、その養父である安達泰盛の進言があった事によるものとの見方もある。建治元年頃には父盛時が没しており、その跡を受けて建治3年(1277年)には時宗が幕府の重要事項を決める寄合衆の一員となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平頼綱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|