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平野 正太郎(ひらの しょうたろう、1919年 - 没年不明)は、大阪府出身の元プロ野球選手(投手、内野手、外野手)。 == 来歴・人物 == 日新商業学校(現:東大阪市立日新高等学校)卒業後、南海軍に入団。1939年5月6日の阪急軍戦では宮口美吉投手とのリレーで無安打に抑えるも、2点を取られて敗戦投手になるという珍記録を持っている(日本プロ野球公式戦唯一の被安打0敗戦)。1939年6月3日に行われた新人東西対抗野球戦では、徴兵検査を受けていたため登板を回避した荒木政公〔阪急〕に代わって先発を務めた。1940年4月6日の阪急軍戦(2-32で記録的大敗を喫した試合)では、劉瀬章の後を受け、2番手投手として登板。1回から6回まで登板し、11失点を記録した〔職業野球!実況中継(昭和15年 阪急vs南海 2回戦) 〕。限りで現役引退。 引退後は母校・日新商の監督を務め、後に南海で名選手・コーチとなる堀井数男を育てた〔堀井数男|クラシックSTATS鑑賞 南海018 〕。 劉瀬章、政野岩夫と並んで「南海のアンダースロー三人衆」と呼ばれた〔職業野球!実況中継(14年 南海vsセネタース 5回戦) 〕。しかし下手投げの決め球となるシンカーが投げられなかったため、打者に球種を読まれやすく(時々オーバースローからドロップを投げていたと伝わる)滅多打ちに遭うことも少なくなかったと伝わる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平野正太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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