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幸内純一(こううち じゅんいち、1886年 - 1970年)は大正 - 昭和初期に活躍した漫画家、アニメーション演出家である。 == 略歴 == 1886年9月、岡山生まれ。20歳頃に上京し、水彩画を学ぶため1905年の正月より三宅克己の門に入る。1906年1月から太平洋洋画会研究所で2年ほど修行する。 1907年12月、東京パックに入社。日本初の職業漫画家である北澤楽天の門下生として政治漫画を描く。東京パックでの弟子は、日本アニメで功績を残した大藤信郎らがいる。 1912年、大杉栄と荒畑寒村が共同発行した思想文芸誌『近代思想』の巻頭挿絵を描く。 1912年12月、東京毎夕新聞社に入社して1917年2月まで一面の政治漫画を担当する。 漫画家として人気が出てきた1917年〔では1917年2月まで毎夕新聞の一面で漫画を担当したとある。では1916年とする。〕、日本最初のアニメーション映画の製作を目指していた小林喜三郎にスカウトされ、映画製作会社の小林商会に入社する。小林よりアニメの製作を依頼される〔では、の、天活や日活でのアニメーション制作を知った小林喜三郎が幸内を担ぎ出した、という推測に説得力を見出している。小林が小林商会を設立したのは1916年10月である。〕。 苦労の末、1917年に第1作の『なまくら刀』を完成させる。この作品は同年6月30日に『塙凹内名刀之巻』と改題されて劇場公開される。日本最初のアニメーション映画、下川凹天の『芋川椋三玄関番の巻』に遅れる事5ヶ月である〔『芋川椋三玄関番の巻』が1917年1月に公開されたとの説による。F.S.Litten(2013)によれば、『芋川椋三玄関番の巻』は4月公開の作品であり、1月に公開されたのは未発見の別の作品であるとする。〕。この作品は当時の映画雑誌『活動之世界』にて映画評が掲載される〔。に全文引用されている。〕が、これは文献に載るアニメ評の最古のものといわれている。 1918年に小林商会が経営難で映画製作を中止すると1918年2月に東京毎日新聞〔。では「毎夕新聞」とする〕に入社し、漫画家に戻る。毎日新聞では政治漫画を描く。 1923年に「スミカズ映画創作社」を設立し再びアニメ製作を開始。主に政党のPRアニメを製作する。1927年に漫画家に戻ったが、1930年にアニメの製作を再開。トーキーアニメの『ちょん切れ蛇』を製作したが、この作品を最後にアニメ制作を辞める。 1932年、読売新聞社に入社し風刺漫画を描く。後に『時事新報』絵画部長となる。 1970年に亡くなる。 2007年7月に大阪の骨董市で映像文化史家の松本夏樹が映写機と紙製の箱に入ったフィルムを購入した際、『塙凹内名刀之巻(なまくら刀)』と北山清太郎の『浦島太郎』(1918年公開)のフィルムが発見された。デジタル技術で修復され、東京国立近代美術館フィルムセンターで2008年4月24日から開催された「発掘された映画たち2008 」で上映された。その後、常設展示されている〔NFCコレクションでみる日本映画の歴史 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「幸内純一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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