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幸手宿(さってじゅく)は、江戸時代に整備され、栄えた宿場町の一つ。現在の埼玉県幸手市中心部に相当する。 日光街道の江戸・日本橋から数えて6番目の宿場である。 == 概要 == 現在の幸手市中部から北部にかけての旧街道筋付近にあたる。南から北に900メートル程度の範囲で広がっていた。 元々奥州に通じる渡しがあった場所として古くから栄え、日本武尊が東征に際して「薩手が島」(当時この近辺は海だったという伝説がある)に上陸、中4丁目にある雷電神社に農業神を祀ったという記述が古書に残っている。鎌倉時代には鎌倉街道が通じ、軍事・交易上でも交通の要衝として栄え、室町時代以降は一色氏の領地となり、現在の天神神社付近に陣屋が築かれていた。 江戸時代になると、一帯は江戸幕府直轄の天領となり、日光御成道との合流点として、さらに筑波道が分岐する宿場町として繁栄した。なお、この頃に、それまで田宮の庄と呼ばれていた町の名前が幸手となった。1843年(天保14年)当時の人口は3,937人、家数962軒、本陣1、脇本陣1、旅籠27軒であった。両隣の杉戸宿や栗橋宿と比較すると、2倍以上の宿場規模を誇っており、純粋な宿場としては千住、宇都宮、陸奥白川、越ヶ谷に次ぐ大きさであった。 またこの時代、伊奈氏の手で利根川の付け替え工事が行われ、権現堂川、江戸川が整備され、新田開発による米作の増大と相まって、これらの川を利用した江戸との間を結ぶ舟運が発展し、川沿いに作られた権現堂河岸には回船問屋が軒を連ねていた。 所属として古くには下総国葛飾郡に属していたが、万治年間より武蔵国桜井郷田宮の庄(武蔵国葛飾郡)に属するようになり、田宮町または薩手・幸手町と称されるようになった。その後、元禄年間より幸手宿と称されるようになった。〔『武蔵国郡村誌 第十四巻(260ページ)』 埼玉県立図書館 発行 昭和三十年三月二十八日 発行〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「幸手宿」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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