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幼きイエスのマリー・エウジェンヌ : ミニ英和和英辞書
幼きイエスのマリー・エウジェンヌ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

幼きイエスのマリー・エウジェンヌ ( リダイレクト:マリー=ウジェーヌ・ド・ランファン・ジェジュ ) : ウィキペディア日本語版
マリー=ウジェーヌ・ド・ランファン・ジェジュ[ちょうおん]
マリー=ウジェーヌ・ド・ランファン・ジェジュフランス語:Marie-Eugène de l'Enfant-Jésus、本名:Henri Grialouアンリ・グリアルー1894年12月2日-1967年3月27日)はフランスカトリック教会跣足カルメル会修道司祭尊者、在俗会ノートルダム・ド・ヴィ(いのちの聖母会)創立者。
== 生涯 ==
アンリはフランス中央部アヴェロン県の山岳地帯に住む炭坑夫の5番目の子供として生まれ、生活は質素で貧しいもの、両親から不屈の精神と強い信仰心を受けて育った。彼は幼少のころから司祭への憧れを抱くようになる。
しかし1904年1月、父は突然の病気により他界。母はアンリを含む5人の子供を一人で養育することを余儀なくされた。翌1905年、初聖体を受け司祭への召命を強くし、「聖霊会」という宣教会が募集した特待生になることを決心し、単身イタリアへ旅立つ。その間、彼の精神力は磨きをかけていった。
3年後、帰国しグラーヴの小神学校に入学し、非常に優秀な成績を修めた。母は息子が教区司祭になることを期待し負担を惜しまなかった。
1911年、ロデーズの大神学校に入学するが、1913年、第1次世界大戦が勃発、アンリは学業を中断し徴兵され、戦地に赴く。負傷するもの戦地に戻り、前線に向かったが幸い、アンリをはじめとする部隊は無傷で帰還した。1919年、戦場での功績により陸軍中尉に昇格、レジオンドヌール勲章を授与されたがアンリは司祭になることを諦めず、復員後、大神学校に戻った。
1920年12月18日、副助祭に叙階、その準備中に「十字架の聖ヨハネ略伝」を読み、カルメル会への入会を決心する。指導司祭をはじめ、司教らの教会関係者は反対し、特に母親の反対は強烈であった。しかしアンリはその決心を揺るがすことなくカルメル会への入会は許された。
1922年2月4日、司祭に叙階。彼は一生涯繰り返すことになる「私は司祭、この一語で十分だ」の言葉を残した。初ミサをあげた後、同年2月24日、フォンテーヌブロー付近のアヴォンのカルメル会修道院に入り、修練期を経て、1923年、初誓願を立てる。修道名は彼が尊敬するリジューのテレーズにちなみ「幼きイエスのマリー・エウジェンヌ」にし、以後、そう名乗ることになる。
彼は修道者としての生活を送り、また司祭として霊的指導を行い、1924年、リールに派遣され、『カルメル』誌の編集者として活躍を見せた。1926年、終生誓願を立て、1928年、プティカストレの小神学校の教師に就任し、マルセイユの哲学学者や知識人に出会い、依頼を受けるようになる。1929年、グリアルーは3人の女性教師らに出会い、奉献生活への望みを知る。彼はカルメル会の霊性に基づく奉献生活を模索した。1932年に落成されたアジャンの修道院で修道院長に任命され、その前にプロヴァンス地方のヴナスクという町にある「いのちの聖母」の聖堂に巡礼し、そこに在俗のグループを形成する。それが後に在俗会「ノートルダム・ド・ヴィ」へと発展していく。会名は本拠地であるヴナスクの「いのちの聖母」にちなむ。
''詳細はノートルダム・ド・ヴィを参照''
1937年4月17日、カルメル会総長顧問に選出されローマに赴き、同年、ノートルダム・ド・ヴィはカルメル第三会在俗会として認可された。その間、第2次世界大戦勃発で従軍司祭として動員され、終戦後、ローマに戻り総長代理として1955年まで滞在した。グリアルーは帰国し、フランス国内の女子カルメル会の連合を組織化し、またアキテーヌ管区の管区長に選出されその任期を全うする。
しかし、健康が徐々に悪化し障害も生じてきたにもかかわらず、彼は黙想会の指導や司祭、神学生の育成を忠実に務めを果たし、1967年3月27日、復活の月曜日に帰天(死去)。教会はグリアルーの聖徳を認め、1985年、列福調査を開始し、2011年、尊者の称号を受けた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「マリー=ウジェーヌ・ド・ランファン・ジェジュ」の詳細全文を読む




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