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広安門事件(こうあんもんじけん)は、日中戦争初期(北支事変)の1937年(昭和12年)7月26日、中華民国冀察政務委員会の支配地域であった北平(北京市)で起きた国民革命軍第二十九軍〔南京政府直属の中央軍ではなかったため、中央軍に編入するように蒋介石が働きかけていた。〕による日本軍への襲撃事件。この7月には7日に盧溝橋事件、25日に廊坊事件という別の衝突事件が起きていた。 ==事件概要== 北平居留民保護の為に日本軍広部大隊〔支那駐屯歩兵第二連隊第二大隊(戦史叢書 pp.216-217)〕は26台のトラック〔戦史叢書 pp.216-217〕で北平城内の日本兵営に向かった〔陸軍省新聞班 1937 p.6〕。事前に松井特務機関長が部隊の北平外城広安門(:zh:廣安門)通過について、冀察政務委員会当局と交渉して秦徳純市長の承諾を得た上で、連絡の為に冀察政府軍事顧問桜井少佐が午後6時頃広安門に赴くと、門を警備していた中国軍が城門を閉鎖していたため、開門について交渉した結果午後7時半頃開門され部隊が門の通過を始めたが 、部隊の3分の2が通過した時に〔『戦史叢書』では先頭のトラック3両が通過したときに中国側の攻撃が開始されたとされている(戦史叢書 pp.216-217)〕突如門が閉ざされ、広部部隊を城門の内と外に分断した状態で不意に手榴弾と機関銃の猛射による攻撃を加えてきたため、広部部隊も〔『戦史叢書』では軍事顧問が中国軍の鎮撫に努めても聞かないため午後8時応戦を始めたとされる(戦史叢書 pp.216-217)〕門の内外から応戦した〔。中国側は兵力を増強して大隊を包囲し、一方豊台の河辺旅団長により午後9時半救援隊が派遣されたところで折衝により中国軍は離れた場所に集結し、広部部隊の内、城内に入ったものは城内公使館区域に向かい、城外に残されたものは豊台に向かうという案がまとめられ午後10時過ぎに停戦し、広部部隊は27日午前2時頃公使館区域の兵営に入った〔。この戦闘における日本軍の死傷者の合計は19名で、その内訳は戦死が上等兵2、負傷が少佐1、大尉1、軍曹1、上等兵2、一等兵1、二等兵7、軍属2、新聞記者1であり、桜井顧問に同行した通訳1名も戦死している〔。 当時、既に中国軍は河北省南部の石家荘・保定や山西省の大同に多数集結し、また豊台においては完全に日本軍を包囲しており、その一方で日本軍も新たに動員された関東軍・朝鮮軍の部隊が北平・天津地区に到着しつつあり、両軍の間で緊迫の度が高まる中で起きた事件であった〔伊香俊哉『満州事変から日中全面戦争へ』吉川弘文館、2007年 ISBN 978-4642063326〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「広安門事件」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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