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ヒロシマ・ナタリー(HIROSHIMA NATALIE)は、開業当時広島県佐伯郡廿日市町阿品(1988年の市政移行で廿日市市になる)にあった遊園地。 == 概要 == 広島市の西郊、宮島を対岸に望む総面積78000m²の埋め立て地に1973年9月より、総工費30億円をかけて建設を開始。1974年4月23日14時にオープンした。運営元は、広島を発祥とする準大手ゼネコンフジタ工業(1990年にフジタになる)の関連会社である廿日市観光開発株式会社が経営していた。 ナタリーの名称は、1937年に建造されたエンジン付き帆船「ナタリー号」より付けられた。現役時代は地中海で使われ、ショーン・コネリー1964年の主演映画『わらの女(Woman of Straw)』の劇中にも登場するという〔八濱漂泊傳: 宇野港に『ナタリー号』がやってきた日 〕。1971年に、遊園地の目玉として日本まで自走し、日本一周を行った後で遊園地があった場所に落ち着いた。 開園当初のキャッチコピーは「輝く太陽と海★大きなこころをテーマにした“海洋レジャーパーク”」とし、日本初の海洋形遊園地として開業した。 開園当初は、東洋最大とされた観覧車や複数のプールなど、当時の中国地方では本格的な遊園地だった。瀬戸内海と宮島や広島市街を望むロケーションにも恵まれており、広島で遊園地と言えばナタリーというくらい有名であった。 1980年代に入ると同遊園地の東側にフジタのスポーツ施設が完成し、サッカー教室やスイミングスクール・フジタドルフィンクラブの場としても親しまれてきた。 しかしながら入園料も施設使用料も高かったせいか、バブル崩壊後は徐々に来園者は減少していった。1992年に広島市の東郊の呉市に同じ規模のテーマパーク、呉ポートピアランド(現・呉ポートピアパーク)がオープンしたこともダメージとなり1996年3月で閉園した。 跡地は、ショッピングセンター(フジグランナタリー)やマンションを中心とした住宅地(ナタリーマリナタウン)に生まれ変わっているが、いずれも、長年親しまれた「ナタリー」の名前を残している。なお、経営していた廿日市観光開発は同系列の藤和不動産(現・三菱地所レジデンス)等と共同で再開発事業にも参加し、マンション群の一つ「マリナタウンウエストデッキ」の事業主となっている。当時県内にはテーマパークが他に数カ所あったが今ではみろくの里だけが残っている。 広島ナタリーの写真は数枚ネットで見られる ただ、アトラクションの位置関係が分かる写真があまりない。この阿品の歴史 の1977年(昭和52年)の航空写真が小さいが少し分かる。写真上が宮島側、下が広島市側となるが、この写真下の海に突き出しているのが海上ジェットコースター。その上の空色の部分がプール。この真ん中にナタリー号が置かれていた。キャンディーズが『ザ・ベストテン』で歌ったのはこの船の上。写真中程の広い灰色の所が駐車場で、現在のフジグランナタリーはこの辺りに建っている(追加→ふるさと 阿品 よもやま №150 懐かしい「ナタリー」 、宮島口(赤崎)の 今むかし 九 ~ 遊園地 ヒロシマ ナタリー - 宮島街道 、夏場に観覧車の上から撮られた写真か?)。 フジグランナタリー内にはナタリー・サルベージ・アート・ストリートが作られ、導声管や舵、羅針盤が残され、在りし日のナタリーを偲んでいる。 ファイル:広島ナタリー跡02.JPG|以前ナタリー内にあった建物。閉鎖後もしばらく残ったが、現在は存在しない。 ファイル:広島ナタリー跡03.JPG|フジグランナタリー内のナタリー・サルベージ・アート・ストリート ファイル:広島ナタリー跡04.JPG|ストリート内には舵も残されている ファイル:広島ナタリー跡05.JPG|羅針盤も残されている 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「広島ナタリー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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