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広島市中央公園(ひろしましちゅうおうこうえん)は、広島県広島市中区基町にある無料の市民公園。地元では、中央公園とも呼ばれる。 公園全体は公益財団法人広島市みどり生きもの協会が管理する。なお、広島城址公園(広島城)は中央公園の一施設である。敷地内の博物館広島城(天守)や中国放送、広島護国神社や城の掘、はそれぞれ別団体が管理している。 == 中央公園が出来るまで == 江戸時代には、武家屋敷が広がり、明治以降は陸軍第5師団が置かれたが、1945年の原爆投下により爆心地近く(軍用地のほぼ全域が爆心地より1.5km以内)に位置していたため壊滅、軍用地の撤去された。 1946年(昭和21年)11月1日、戦告237号により70.48haが『中央公園』として、都市計画公園として指定〔『広島新史 都市文化編』46ページ〕。当時の計画では、原爆ドームのある近辺や基町のアパート群周辺も中央公園用地とされていた。また、丹下健三が設計した広島平和記念公園の1951年(昭和26年)当時の計画では、当公園のほか、基町中層アパート群や市営基町高層アパートのあたりも、平和公園として整備する構想があった〔ヒロシマの記録-平和都市法50年 未完の「平和記念公園」 復興の夢と希望託す - 中国新聞 1999年6月22日〕。1951年(昭和26年)8月6日に発表された「広島平和記念都市建設計画についての意見書」で、中央公園用地については正式に、平和祈念施設建設用地から外された〔『広島新史 都市文化編』59ページ〕。その後の計画で、中央公園は58.76haに変更された〔『広島新史 都市文化編』62ページ〕。 しかし実際は、戦後の住宅不足を解消するために、公営の住宅が1949年(昭和24年)までに市・県・住宅営団などが1815戸建築〔平和文化 No.181_13 広島平和記念資料館平成24年度第1回企画展 基町 姿を変える広島開基の地 - 公益財団法人 広島平和文化センター〕。さらに原爆で住む家を失った被災者たちが本川東岸を中心とする地区に流入して次々にバラック住宅を建築、いわゆる原爆スラム(通称「相生通り」)が形成された〔平和文化 No.181_13 広島平和記念資料館平成24年度第1回企画展 基町 姿を変える広島開基の地 - 公益財団法人 広島平和文化センター〕。1956年(昭和31年)11月には、基町にアパートを1,894戸建築することを決定〔『基町地区再開発事業事業記念誌』 10ページ〕。公園用地は、さらに16ha減らされた〔『広島新史 都市計画編』 78ページ〕。当初は中層アパートを整備する計画だったが〔、1968年の基町地区再開発計画(基町再開発事業)より、高層アパート計画に変更。1978年に再開発が完了した。詳細は原爆スラム・市営基町高層アパートを確認のこと。 日本の歴史公園100選および都市景観100選に選定されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「広島市中央公園」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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