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広幡 基豊(ひろはた もととよ、寛政12年4月22日(1800年5月15日) - 安政4年5月29日(1857年6月20日))は、江戸時代後期の公卿。主に光格天皇(119代)・仁孝天皇(120代)・孝明天皇(121代)の三朝にわたり仕え、官位は従一位内大臣まで昇った。父は内大臣広幡経豊。母は権大納言日野資矩の娘(内大臣今出川実種の養女)。妻は鷹司政煕の娘・皐子。子に貴族院議員広幡忠礼侯爵、水無瀬経家(教成の養子)、娘に鋭姫(徳川慶篤室)、四条隆平室、叔子(養女、水無瀬教成の妹(又は姉)、経家室)がいる。 歴代当主同様、近衛家の猶子になったと思われ、慣例により近衛基前から偏諱の授与を受けて基豊と名乗った。 == 生涯 == 享和2年(1802年)に叙爵。清華家当主として速いスピードで昇進し、文化10年(1813年)には従三位となり、公卿に列する。その後も権中納言・踏歌節会外弁・権大納言・踏歌節会内弁などを務め、弘化4年(1847年)に皇太后となった鷹司祺子の皇太后宮大夫となる。嘉永2年(1849年)に右近衛大将・右馬寮御監となる。安政2年(1855年)の孝明天皇の遷幸に際して、基豊は居飼2名、随身6名、見寺2名、舎人長1名、馬副8名、傘1名の計20名を集めて天皇に供奉した。安政4年(1857年)に従一位内大臣となるも同年に薨去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「広幡基豊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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