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広橋兼宣 : ミニ英和和英辞書
広橋兼宣[ひろはし かねのぶ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はし, きょう]
 【名詞】 1. bridge 
: [けん]
  1. (conj,n) and 2. in addition 3. concurrently 

広橋兼宣 : ウィキペディア日本語版
広橋兼宣[ひろはし かねのぶ]
広橋 兼宣(ひろはし かねのぶ、貞治5年/正平21年11月6日1366年12月8日)-永享元年9月14日1429年10月12日))は、室町時代公卿広橋仲光の子。法名は常寂、法号は後瑞雲院。
== 経歴 ==
大学寮の実体が無い時代であったとはいえ、文筆を業とした広橋家の出身でなおかつ後円融天皇の生母崇賢門院の義理の甥〔崇賢門院広橋仲子は、兼宣の祖父広橋兼綱猶子。〕にあたることから、3歳で学問料を与えられ、5歳で文章得業生となるなど破格の扱いを受ける。応安5年/文中元年(1372年)に元服し、翌年にはわずか8歳で叙爵されて治部権少輔に任ぜられた。永徳3年/弘和3年(1383年)に蔵人嘉慶2年/元中5年(1388年)に右少弁文章博士となりその年のうちに左少弁に転じた。明徳元年・/元中7年(1390年)に右中弁となる。南北朝合一後の応永元年(1394年)には正四位下蔵人頭(頭弁)に任ぜられ、左中弁に転じる。応永2年(1395年)に右大弁、応永4年(1397年)に左大弁、応永6年(1399年)造東大寺長官を歴任後、応永7年(1400年)に参議に任ぜられた。応永8年(1401年従三位中納言となり武家伝奏に任ぜられる。応永14年(1407年)に左兵衛督検非違使別当を兼ね、応永15年(1408年)に大宰権帥を兼ねる。応永17年(1410年)に正二位大納言に任ぜられ、応永30年には(1423年)に従一位大納言に任ぜられた。応永32年(1425年)に出家するが、その直前に准大臣に任ぜられた。准大臣任命直後には、自亭に「裏築地」を造営して物議を醸した(後述)。
武家伝奏として室町幕府との交渉にあたり、その様子は日記兼宣公記』に記されている。また、娘は後花園天皇の乳母となった。没後、内大臣を贈官されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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