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広津柳浪 : ミニ英和和英辞書
広津柳浪[ひろつ りゅうろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やなぎ]
 【名詞】 1. willow 2. slim 

広津柳浪 : ウィキペディア日本語版
広津柳浪[ひろつ りゅうろう]

広津 柳浪(ひろつ りゅうろう、1861年7月15日文久元年6月8日) - 1928年昭和3年)10月15日)は、日本小説家肥前国生まれ、本名直人、別号に蒼々園。硯友社同人となり、「残菊」で認められる。「変目伝」「今戸心中」「黒蜥蜴」などの低階級社会の暗部を描いた作品で、悲惨小説、深刻小説と称された。小説家の広津和郎は子。
== 生涯 ==
肥前国長崎材木町に、「富津南嶺」と名乗って開業していた久留米藩士・医師広津俊蔵(のち弘信に改名、外交官となる)、りう(柳子)の次男として生れた。幼名は金次郎。少年時より漢籍を学び、軍記物読本などに熱中した。
9歳の時に、狼藉を犯して父から切腹を命じられたが、伯母サワが嫁いでいた肥前国田代在酒井村(現・佐賀県鳥栖市)の磯野に取りなされて磯野家に預けられ、姫方村の塾で漢学などを学んだ。2年後久留米を経て長崎に帰り、1873年(明治6年)に長崎市向明学校に入学。翌年一家が東京麹町に移ったため、番町小学校に入り、好成績で卒業。外国語学校でドイツ語を学び、東大医学部予備門に入った。だが1878年(明治11年)、肺尖カタルを病み、そのまま退学する。この年の春、父の友人五代友厚にさそわれて大阪へ行き、見習いとして五代家に居候することになった。結果、農商務省の官吏となったが、それよりも『南総里見八犬伝』『水滸伝』などを読み、文学へ興味を示し、役人になる気が無く免職になる。1883年に父母が亡くなり、没落、放浪する。
1887年(明治20年)、友人の画家・山内愚仙の勧めで処女作「女子参政蜃中楼」を、柳浪子と号して『東京絵入新聞』に連載する。1888年、蒲池鎮厚の娘寿美子と結婚、博文館に入り尾崎紅葉を知ると、硯友社同人となり「残菊」で認められた。東京中新聞都新聞改進新聞などを転々とし、「おのが罪」などを発表。1891年(明治24年)には和郎が生れている。1895年頃から客観描写に力を入れ、「変目伝」を読売新聞に連載、「黒蜥蜴」(1895年)などで下層社会の悲惨な実態を描く独自の作風を築き、川上眉山泉鏡花などの観念小説に対して、深刻小説、悲惨小説と呼ばれる〔高山樗牛「明治の小説」(1897年)では「黒蜥蜴」を観念小説の一代表として述べているが、当時の観念小説がしばしば悲惨な生活を描いたために同一視されたものと思われる。(本間)〕。さらに写実的な心理描写を強め、「今戸心中」(1896年)、「河内屋」(同)、「畜生腹」(1897年)などで評価を高め、樋口一葉と並ぶ評判を得る。
1898年に寿美子死去、同年永井荷風入門。1902年、高木武雄の娘潔子と再婚。1904年頃に若手を集めた同人誌「にひしお」を始め、自身も日露戦争で兵士を送る民衆を描いた「昇降場」を執筆。1908年長編「心の火」を『二六新報』に連載した後、創作活動は低調になり、1911年に創作活動は停止した。
1913年に家賃を滞納して霞町の借家から追い立てられ、麻布に移るが、この頃和郎の訳した『女の一生』が売れて、生活苦からは救われる。翌年結核で名古屋の兄のところで療養することになり、和郎に生活のために毎夕新聞への就職を世話する。1915年に和郎の紹介で、実業之日本社から作品集「柳浪傑作集」を出して生活費に充て、知多半島師崎の病院に移る。翌年和郎が片瀬に移ると、夫妻でそこに同居。1928年、数年来の肺病の上に心臓麻痺のため死去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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