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広瀬 臺山(ひろせ たいざん、宝暦元年(1751年) - 文化10年10月13日(1813年11月5日))は江戸時代中期後期の文人画家。 初名を惟馨としたが家臣となって藩主の号〔津山藩主松平康哉の落款印章は「知卿」・「徳馨」を用いている。「津山温知会誌」〕に近いことを避けて清風に改める。同じく字も徳卿から穆甫とした〔「広瀬家系譜」(栗原直著『広瀬臺山』三樹書房)〕。通称を周蔵・雲大夫。臺山は号、別号に白雲窩・書画斎など。津山藩藩士。大坂に生まれる。 ==略伝== 美作津山藩藩士広瀬義平の長男。大坂蔵屋敷で生まれた。大坂では池大雅の高弟・福原五岳に就いて画技を学ぶ。安永4年(1775年)、25歳の時父を連れ立って津山に帰藩。このとき師・五岳より「画石三面法図」を贈られている。 同8年(1779年)29歳で家督を相続し、翌年9月、京都御留守居見習となり京都に上った。天明元年(1781年)4月、31歳のとき江戸詰を命じられる。寛政3年(1791年)、雲大夫と改称。享和3年(1803年)53歳のとき、病気を理由に致仕し、藩邸から離れた麻布長坂に棲み、画作に励んだ。文化8年(1811年)9月、61歳で故郷津山に戻り、しばらく上原家に仮託するが、12月に新田村に居宅を構えた。画作を続けたが、文化10年(1813年)10月、63歳にて病没。 臺山は、松平楽翁・上杉鷹山・増山雪斎ら諸大名や雲室・片桐蘭石・松崎慊堂・谷文晁・木村蒹葭堂など名だたる文人と交友した。 津山に帰ったわずかの間であったが門弟・飯塚竹斎に画技を伝えている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「広瀬臺山」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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