|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 内 : [うち] 【名詞】 1. inside
庄内の乱(しょうないのらん)は、慶長4年(1599年)に日向国庄内(現在の宮崎県都城市及びその周辺)で起きた、島津氏とその重臣である伊集院氏との争乱である。この乱は、島津氏家中最大の内乱であり、最終的には徳川家康の仲介により解決に至ったものである。また、慶長の役直後、関ヶ原の戦い直前の大乱であり、島津氏が関ヶ原の戦いに大軍を送れなかった原因になったともいわれている。 == 経過 == === 伊集院忠棟の斬殺 === 慶長4年(1599年)3月9日、伏見島津邸に於いて島津忠恒が伊集院忠棟を斬殺した。伊集院忠棟は、島津義久の筆頭家老であり、島津氏の九州制覇のため活躍した功臣である。豊臣秀吉の九州征伐の際は、豊臣氏と島津氏の兵力の違いを認識し早期降伏を主張した。降伏後は自ら人質となり上洛し戦後処理にあたり、島津氏の存続に貢献した。そのため、島津家の代表的家臣と認められ、戦後処分でも秀吉から直接肝付一郡を拝領した。 文禄3年(1594年)、島津家領内で検地が行われると、伊集院氏は豊臣秀吉から朱印をもって都城8万石を給された。それまで都城を領していた北郷氏は北郷忠能が幼少であったことと、朝鮮出兵で軍役の不足があったこともあり、祁答院へ移され石高も6万9千石から3万7千石へ減らされた。また、忠棟は秀吉から直接命令を受け、検地後の知行配分の責任者となった。このため家中の不満は忠棟に集中し、家中を乱す「佞人」〔『鎌田文書』内の伊勢貞成書状〕であるとも呼ばれた。また伊集院氏の伏見の邸は島津氏宗家のそれよりも大きく、国元では島津氏宗家を乗っ取ろうとしているという風評もたった。 島津忠恒は、島津氏宗家当主・義久の弟である島津義弘の三男であったが、義久に男子無く、また、忠恒の兄(鶴寿丸・久保)が若くして死去したため、義久の三女である亀寿と結婚し、島津氏宗家の後継者となった。 豊臣秀吉の死後、朝鮮から帰国した忠恒に石田三成もしくは徳川家康が伊集院忠棟に叛意があることを伝えたという日州庄内軍記の記述がある〔東京大学史料編纂所本では石田三成、鹿児島県立図書館所蔵の異本では徳川家康が伝えたことになっている。橋口晋作「翻刻 鹿児島県立図書館蔵『日州庄内軍記』」 〕が、それを裏付ける同時代史料はない。島津氏宗家相続の際、伊集院忠棟は義久の次女である新城の婿、島津彰久〔島津貴久の弟島津忠将の孫、島津以久の子〕を推奨しており、忠恒にとって忠棟は憎悪の対象であったといえる。また、朝鮮の役で出陣した忠恒らの遠征軍に対して、国元からの補給が満足に行われなかった。忠棟は朝鮮に出陣しておらず〔子の忠真は出陣している。〕、忠恒らは補給不足の原因が忠棟にあると考えていた〔山本博文『島津義弘の賭け』(中央公論新社、2001年)181頁、229頁〕。ことなどもあり島津氏家臣からも深く恨まれていた。そこで忠恒は、義久、義弘の留守中に忠棟を呼び出し斬殺に到ったものである。 島津氏にとっては家臣であるとはいえ、朱印をもって都城8万石を給されている、つまり豊臣政権側からは島津氏から独立した大名として扱われていた忠棟を殺害したことは、豊臣政権に対する反逆ともとれる行為である。忠恒は高雄山神護寺で謹慎した。また忠棟の妻子は東福寺へ移った。当時実権を握っていた徳川家康は、主君は反逆した家臣を成敗できるとして忠恒の行為を支持し、その結果忠恒は島津邸へ戻った。 義久は、忠棟殺害は忠恒の独断によるものであり、自分は全く関与していないと石田三成に弁明している。しかし、後世の史料であるが「庄内陣記」には義弘・忠恒が共謀し義久が同意を与えたという記述があり、また、翌月の閏3月3日義久は、都城への通行を遮断し、島津氏家臣へ忠真に味方しないよう家臣から起請文を取っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「庄内の乱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|