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庭掃、または庭掃き(にわはき)は、中世(12世紀 - 16世紀)期に存在した日本の清掃作業者である〔''庭掃''、Yahoo!辞書、2012年9月12日閲覧。〕〔庭掃き(右3) 、国立歴史民俗博物館、2012年9月12日閲覧。〕。第一義的には「庭の掃除」でありその行為者を指す語であるが、この時代の日本においては、掃除・清掃に従事する行為・者を指した〔〔。 江戸時代(17世紀 - 19世紀)にも、「かわた」が「庭掃」と呼ばれる職能を兼務する事例が信濃国に存在しており、これについても本項で触れる〔斎藤、p.47-58.〕。 == 略歴・概要 == 平安時代中期、10世紀末に書かれた『枕草子』や、平安時代後期、11世紀後半に成立したとされる作り物語『狭衣物語』に、すでに慣用句として「芹摘む」という語が登場する〔、2012年9月12日閲覧。〕〔、2012年9月12日閲覧。〕。これは、禁中(御所)の「庭掃」が皇后に恋焦がれて芹(セリ)を摘むが、恋はかなわず焦がれ死んだ故事に由来するものとされており〔〔、遅くとも10世紀には「庭掃」が存在したことを意味する。 鳥羽天皇の時代(12世紀初頭)、藤原宗忠の日記『中右記』のユリウス暦1114年4月24日(永久2年旧暦3月18日)の項に「又召次並鳥羽殿庭掃事、仰云、任法可行」とあり、京都近郊、山城国紀伊郡鳥羽(現在の京都市南区上鳥羽・同市伏見区下鳥羽)に存在した広大な鳥羽殿(鳥羽離宮、一部を除き現存せず、跡地は鳥羽離宮公園・安楽寿院等)の「庭掃」について言及されている〔。 猿楽の世界から世阿弥が登場する14世紀後半より以前に成立したとされる『綾太鼓』(あやのたいこ、現在の雑能『綾鼓』)には、主役(シテ)として、女御(ツレ)に恋する「庭掃」の老人が登場する〔、2012年9月12日閲覧。〕。これはのちに三島由紀夫が書いた戯曲『綾の鼓』(『近代能楽集』、1951年)では、「老小間使」として描かれる役どころである。 室町時代、15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』の冒頭には、「いやしき身なる者」として、「農人」(のうにん)とともに「庭掃」として紹介され、庭箒を手にして直垂を着用した老人と、草を入れた籠をもち小袖を着用した童子の姿が描かれている〔小山田ほか、p.142.〕〔遠藤、p.178.〕。この歌合に載せられた歌は、 * 名にたてる こや庭はきの 家の風 花をわが世の 朝きよめかな というものであった〔。ここに描かれた「庭掃」も「農人」も、いずれも帯刀している〔。鈴木棠三は『日本職人辞典』において「庭掃」を、「所謂下男の事である」と記しているが〔鈴木 、p.212.〕、遠藤元男によれば、衣裳・装束や年少者の労働力を伴っている点から、「庭掃」とは下男・下僕のような存在ではなく、清掃に関する技術的な側面も含めた労務を提供した職業であった、と指摘している〔。15世紀は、重商主義的社会であり、農本主義的価値観が退けられ、「農人」が賎視されるとともに同じ土を扱う「庭掃」が対になって描かれているのであろう、という指摘もある〔網野・石井、p.133.〕。原田伴彦は、同歌合における「庭掃」を「即ち庭者」としている〔原田、p.24.〕。庭者、あるいは庭の者(にわのもの)とは、武家の庭掃除等を行う下級役人であり、室町幕府では庭奉行の配下にあった〔、2012年9月12日閲覧。〕。 16世紀に入り、1520年代(大永年間)の京都市内・郊外の光景を、細川高国が発注して狩野元信が描いたとされる『洛中洛外図屏風』の右隻3扇には、二条邸(押小路烏丸殿、現存せず、現在の京都市中京区二条殿町近辺)を掃く「庭掃」の姿が登場する〔。この人物は裸足のようである〔。 近世(17世紀 - 19世紀)の時期、信濃国(現在の長野県)の東部から北部・中部地域にかけて、「庭掃」と呼称・自称する穢多身分の者たちがいたことが指摘されている〔。例えば慶安2年(1649年)上田藩では「かわた」を城下に集住させ、本来の皮革業や警察(与力同心)の下働き、刑場での刑吏の他、「庭掃」として寺社や城、領主屋敷の清掃役を命じている〔。また明和9年(1772年)の同領内の宗門改め帳では、村の真言宗寺院の「庭掃」を乞食が代々務めている事例がある。江戸幕府ではこの時代、「庭者」(庭の者)は、若年寄の支配下に置かれた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「庭掃」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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