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康 有為(こう ゆうい)は、清末民初にかけての思想家・政治家・書家。字は広厦、号は長素、のちに更生(更甡)と称した。出身地から康南海とも呼ばれる。 == 生涯 == 幼児から学問に優れた才を発揮し、広東の名儒朱次琦につき漢宋兼採の儒学を学ぶも飽きたらず、陽明学や仏教をも独学で修めた。ついで科挙受験の帰途香港や上海に出て欧米の文明・思想に触れてからは西欧諸学の訳書をも渉猟し、その学識を広めた。1890年、郷里にほど近い広州に私塾万木草堂を開いて自分の教えを子弟に授け始め、彼らが後の戊戌変法の担い手となった。 1895年、康有為が科挙に合格した時はまさしく下関条約が締結された時期にあたり、科挙受験者をまとめ上げて日本への徹底抗戦を上奏し一躍時の人となった(公車上書)。明治日本に敗れたことは、康有為に政治改革の緊急性を認識させ、同時に短期間で改革を成し遂げた明治日本へのより一層の興味関心をかきたてることになる。そして明治日本やロシアをはじめとする西欧各国の現状についての理解が深まるにつれ、それまでの改革、すなわち李鴻章や曽国藩らの主導のもとで行われていた洋務運動を形式的だと非難して、徹底した内政改革による洋務運動、つまり変法による改革を主張するようになった。その後、時の皇帝・光緒帝に立憲君主制樹立を最終目標とする変法を行うよう上奏を幾度となく行い、1898年6月、ついに光緒帝から改革の主導権を与えられることとなった(戊戌の変法)。ところが康有為の改革は当時、清王朝の実権を掌握していた西太后ら保守派の反感を買うこととなり、改革は9月、わずか100日あまりで西太后のクーデターにあって失敗に終わった(戊戌の政変)。そしてこの時康有為の実弟を含む同志の幾人かは逮捕処刑されてしまった()。しかし康有為自身は一旦上海のイギリス領事館に保護され、その後大陸浪人の宮崎滔天や宇佐穏来彦らの手引きで香港を経由して日本に亡命している。その日本で同じく亡命してきた愛弟子梁啓超と邂逅を果たすのである。ちなみに康有為はこれ以後日本に都合三度ほど滞在し、犬養毅や大隈重信、佐々友房、品川弥二郎、近衛篤麿、伊藤博文といった明治の著名人と親交を結んでいる。また須磨在住の際に知り合った日本人の女性を妻として迎えてもいる。日本とは因縁浅からぬ人物であったといえよう。 その後、アメリカやインドを含む世界各地を清朝からの刺客を避けつつ周遊し、また保皇会を立ち上げて中国に立憲君主制を樹立すべく活動を行った。亡命中は各地の支持者からの援助や自らの書を売ることで生計をたてていたようだ。1911年に辛亥革命が起こると、ようやく帰国が可能となり、それ以後は拠点を中国国内に移した。ただ革命成立後において皇帝を戴いた立憲君主制という理想は古びたイメージを免れず、急速に支持を失っていった。康有為が歴史の表舞台に最後に登場したのは、1917年に起きた張勲による宣統帝溥儀の復辟事件の時である。この時康有為は復辟のイデオローグとして登場した。しかしこの復辟事件はごく短期間で鎮圧され、以後康有為は完全に表舞台から姿を消すことになる。 1927年、70歳で青島にて死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「康有為」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kang Youwei 」があります。 スポンサード リンク
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