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康和地震(こうわじしん)は、平安時代後期に発生した畿内に被害記録が残る地震である。南海地震とも考えられており、約2年2ヵ月前には東海・東南海地震と推定される永長地震があった。 この地震は承徳年間に発生したが、この天変地異やこの年の夏に流行した疫病を期に康和と改元され、年表上では康和元年に相当することから「康和」を冠して呼ばれる〔矢田俊文 『中世の巨大地震』 吉川弘文館、2009年〕。『後二条師通記』および『広橋本兼仲卿記』などに地震被害の記録がある〔寒川旭 『揺れる大地 日本列島の地震史』 同朋舎出版、1997年〕。もともと、畿内付近の地震とされていたが、土佐の被害記録の発見により南海地震と推定されることになった。 == 地震の記録 == 承徳3年正月24日卯刻(ユリウス暦1099年2月16日6時頃、グレゴリオ暦1099年2月22日)、畿内で大地震が発生した。また南海道沖を震源と推定する根拠は土佐の康和2年正月X4日の記録であり、この記録を以て上記の畿内の地震と同一のものと推定されている。 『後二條師通記』によれば、奈良の興福寺で大門、回廊が転倒、塔が破損、西金堂が少破した。『太子伝古今目録抄』によれば、摂津では天王寺でも回廊転倒などの被害があった〔〔宇津徳治、嶋悦三、吉井敏尅、山科健一郎 『地震の事典』 朝倉書店、2001年〕。 従来、本地震は畿内付近のものとされ、河角廣は、奈良付近(北緯34.7°、東経135.7°)に震央を仮定し、規模''M''K = 3.1 を与え〔Kawasumi(1951) 有史以來の地震活動より見たる我國各地の地震危險度及び最高震度の期待値,東京大學地震研究所彙報. 第29冊第3号, 1951.10.5, pp.469-482〕、マグニチュード''M''6.4 に換算されていたが、後述する土佐の記録の発見によって、巨大地震である南海地震と考えられるようになった〔神田茂(1968): 康和元年土佐における大地震 地震 第2輯, 21, 2, pp.142-143, 〕。 土佐の記録は『広橋本兼仲卿記』の紙背文書に見られ、これは賀茂御祖神社に伝わった文書で土佐から提出されたものと推定され、「土佐国潮江庄康和二年〔ママ〕正月□□四日地震之刻国内作田千余町皆以成海底」とある〔間城龍男 『宝永大地震 -土佐最大の被害地震-』 あさひ謄写堂、1995年〕。これは白鳳地震の『日本書紀』による記述「土左国田苑五十余万頃 没為海」と類似し、宝永地震、安政南海地震および昭和南海地震でも見られた南上りの地殻変動による高知平野付近の沈降と推定される。また康和二年正月X四日に相当する地震の記録が見当たらない事から、これは康和元年(承徳3年)の誤記の可能性が高いとされる〔。 賀茂御祖神社は寛治4年(1090年)に荘園として潮江荘(高知市)を設置したが、この地震で田園1000余町(約10km2)が海没した際、潮江荘も被害を受け、翌年の康和2年(1100年)に国司に申請し、国衛領の高岡郡吾井郷津野保を代替地に譲り受け、津野荘が展開することとなった〔荻慎一郎、森公章、市村高男、下村公彦、田村安興 『県史39 高知県の歴史』 山川出版社、2001年〕。 『広橋本兼仲卿記』の紙背文 マグニチュードは''M''8.2〔〔宇佐美(2003)による推定値M 8 - 8.3の中間値を四捨五入。〕あるいは''M''8.0-8.3〔宇佐美龍夫 『最新版 日本被害地震総覧』 東京大学出版会、2003年〕などと推定されているが、断片的な記録しか有しない歴史地震であるため数値の精度は高くない。 東大阪市瓜生遺跡で11世紀末から12世紀にかけての小規模な液状化跡が発見され、この時期に南海地震が発生した証拠とされる〔寒川旭 『地震の日本史』 中公新書、2007年〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「康和地震」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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