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廉 隅(れん ぐう)は中華民国の外交官・政治家・司法官・弁護士。中華民国維新政府、汪兆銘政権(南京国民政府)の要人。別号は励清〔劉寿林ほか編『民国職官年表』1424頁。〕。 == 事跡 == 日本に留学し、京都帝国大学で法学士の称号を取得した。帰国後は北京政府でまず外交部主事に就任する〔『朝日新聞』(東京)昭和16年1月20日、1面。〕。 以後、1913年(民国元年)1月、浙江省高等審判庁庁長に任命され、11月、辞任する〔劉ほか編276頁。〕。1914年(民国3年)3月、直隷省高等審判庁庁長に任命され、1920年(民国9年)9月までつとめた〔同上190-193頁。〕。まもなく署理河南省高等審判庁庁長に異動したが、翌月に早くも辞任した〔同上233頁。〕。後に天津市で弁護士を開業する〔。 中華民国維新政府成立後の1938年(民国27年)4月、廉隅はその外交部次長に任じられたが、6月、いったん辞任している。翌年2月、外交部長の陳籙が国民政府の特務に暗殺されると、4月から8月まで廉隅が署理部長をつとめた。次いで署理実業部長に転じる〔同上1026、1028頁。〕。 1940年(民国29年)3月、維新政府が汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府に合流すると、いったんは立法委員に任ぜられる〔。しかし同年末、廉隅は初代駐満州国大使に任命された。1943年(民国32年)2月まで、この地位をつとめている(後任は陳済成)。いったん大使在部弁事となり、1945年(民国34年)5月に汪兆銘政権最後の駐日大使に任ぜられた〔郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌 下』1919頁。〕。 日本敗北、汪兆銘政権崩壊以後は、廉隅は行方不明となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「廉隅」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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