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廖 化(りょう か、? - 264年)は、中国後漢末期から三国時代の軍人。蜀漢に仕えた。字は元倹。荊州襄陽郡中盧県の人。元の名は淳。 ==生涯== ===事跡=== 正史で初めて名が挙がるのは、荊州にて関羽の主簿を務めていた頃である。荊州攻防で関羽が孫権軍の呂蒙に敗れると投降したが、 劉備の下に戻りたい一心で自分が死んだというデマを流し、老母を連れて脱出した。222年、呉征伐に出ていた劉備と出会い帰参を果たし、そのまま東征(夷陵の戦い)に参加した〔『三国志』宗預伝付廖化伝〕。 劉備が崩御すると諸葛亮の参軍となり、のちに督広武に任じられた〔。蔣琬は諸葛亮から茂才に推挙されると、固辞して廖化らに譲っている〔『三国志』蔣琬伝〕。 後に廖化は陰平太守となり、238年9月、魏の守善羌侯である宕蕈の陣営を攻撃した。魏の郭淮は広魏太守王贇・南安太守游奕に軍勢を預け、山の東西から廖化を挟み撃ちさせた。軍勢の分散を懸念した魏の曹叡(明帝)は「別働隊のうち必要でない者は引き揚げて要地を守らせよ」と勅命を下したが、詔勅が届かぬうちに游奕軍は廖化に打ち破られ、王贇は流れ矢に当たって死んだ〔『三国志』明帝紀〕。 248年、姜維は北伐を行なって西方へ向かい、魏に反乱を起こした羌族の治無戴を出迎えた。また、廖化は成重山に留まって城を築き、羌族たちから人質を取り立てた。郭淮は諸将の反対を押し切って軍勢を二手に分け、夏侯覇には沓中へ姜維を追わせ、自分は諸軍を率いて廖化を攻撃した。このため姜維は引き返して廖化を救援することになり、北征は未遂に終わった〔『三国志』郭淮伝〕。 一方、郭淮に破られた治無戴らを迎え入れ、益州へ移住させることには成功した。 翌249年秋、姜維はまた北方へ進出したが郭淮に阻まれ撤退した。廖化は、郭淮が勝利に乗じて羌族を攻撃するため西方へ出かけた隙を突き、三日後に軍を返して白水の南岸に布陣し、鄧艾と対峙した。廖化が鄧艾を釘付けにし、姜維が東進して洮城を奪取する計画であったが、鄧艾に見抜かれた。姜維が洮城に着いた頃には、既に鄧艾が引き返して楯籠っていた〔『三国志』鄧艾伝〕。 廖化は次第に昇進し、右車騎将軍・仮節・領并州刺史となり、中郷侯に封ぜられた。(おそらく張翼と同様259年のことか)果断激烈をもって称えられ、官位は張翼と同等で宗預の上であった〔。 廖化が張翼とともに大将となったとき、人々は「前に王平・句扶あり、後に張翼・廖化あり」と語り合った〔『華陽国志』劉後主志〕。 諸葛瞻が朝政を統括するようになると、廖化は宗預の屋敷を訪ね、諸葛瞻に挨拶をしに行こうと誘ったが「吾らが七十歳を越えて望むことは、一日でも死を遅らせることのみ。年少の輩に何を望み、せこせこと訪問せねばならんのだ」と断られている〔『三国志』宗預伝〕。 262年、姜維が軍勢を率いて狄道に進出した際、廖化は「戦いはやめなければ必ず我が身を焼くことになる(『左伝』)。それは伯約(姜維)のことだ。智略は敵に勝らず、力量も賊に劣っているのだから、それを飽くまで仕掛け続けたとしても、どうやって成功させられようか。『詩経』に、我より先んじず我より後れず、ということがある。これは正に今日のことだ」と姜維を批判した〔『三国志』宗預伝付廖化伝注『漢晋春秋』〕。 263年、魏が攻めてきた時、姜維・張翼と共に剣閣を守備し最後まで鍾会軍に抵抗したが、先に成都が陥落したため降伏した(蜀漢の滅亡)〔『三国志』姜維伝〕。264年、洛陽に連行される途上で病死した〔。宗預との会話を見るに、没年齢は70歳代だった様である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「廖化」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Liao Hua 」があります。 スポンサード リンク
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