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延元の乱(えんげんのらん)は、足利尊氏が後醍醐天皇の建武政権に対して反旗を翻した挙兵のこと。 「延元」はこの挙兵の最中の建武3年2月29日(ユリウス暦1336年4月11日)に建武政権によって行われた改元によるもので、当時既に持明院統(後の北朝)の光厳上皇を擁していた尊氏はこれを認めず、建武政権崩壊後も引き続き「建武」の元号を用いた。また、「乱」という呼称も尊氏を逆賊(反逆者)とみなした建武政権→南朝の見解に基づくものである。従って、「南朝正統論」が強かった時期に用いられた用語であるとされ、今日ではほとんど用いられない呼称である。また、建武の乱(けんむのらん)を採用する論者(森茂暁〔森茂暁は、『太平記』巻12「千種頭中将事」の赤松円心が播磨国守護職を奪われて深く恨む場面において、「サレハ建武ノ乱ニ俄ニ円心々替シテ朝敵ニ成リタリシモ此恨トソ聞シ」とあることを指摘して、当時から使用されていた用語として「建武の乱」の名称を採用している。(森茂暁「『博多日記』の文芸性と九州の元弘の乱」(初出:「福岡大学人文論叢」37巻4号(2006年3月)/所収:森『中世日本の政治と文化』(思文閣出版、2006年) ISBN 978-4-7842-1324-5 第三章第五節))〕・楠木武〔『日本中世史事典』」(朝倉書店、2008年) ISBN 978-4-254-53015-5 P404「建武の乱」〕)もいる。 == 経緯 == === 前史 === 後醍醐天皇は大覚寺統と持明院統、更に自己の系統と実兄後二条天皇の系統(後の木寺宮・花町宮)との決着をつけるべく、倒幕運動を起こし、一度は事敗れて隠岐島に流されたものの、楠木正成や新田義貞、そして足利高氏(後の尊氏)の活躍で、元弘3年(1333年)遂に鎌倉幕府は滅亡し、幕府が立てた光厳天皇を排除して京都に復帰した(元弘の乱)。 鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇は建武の新政と呼ばれる新政治を開始した。足利高氏は倒幕に参加した武家の中でももっとも名門でこれに従う武士も多かった。そこで天皇は高氏を倒幕の勲功第一として、従四位下に叙されて鎮守府将軍・左兵衛督に任じられ、また武蔵国・下総国・常陸国の3つの知行国及び30箇所の所領を与えられた。さらに天皇の諱尊治から偏諱を受け尊氏と改名した。だが、尊氏自身は新政権(建武政権)において、弟の足利直義を成良親王の補佐として鎌倉に派遣し、足利家の執事である高師直やその弟師泰ら主だった重臣たちは参加させたものの、自身は入る事は無かった。このため、尊氏が新政権と距離を置いていると言う見方が広がり、世人はこれを「尊氏なし」と称した。これに危機感を抱いた護良親王は、尊氏の排除を計画するが、建武元年(1334年)には父・後醍醐天皇の命令で逮捕され、鎌倉の直義に身柄を預けられて幽閉の身となった。 建武政権は後醍醐天皇の情熱とは反対に混乱をきわめ、人々の反発を高めた。そんな中の建武2年(1335年)、前関東申次西園寺公宗と北条氏残党による天皇暗殺の企てが発覚し、続いて信濃国で北条高時の遺児時行を擁立した北条氏残党の反乱である中先代の乱が発生する。これを迎え撃とうとした直義はこれを防げずに護良親王を秘かに殺害した上で鎌倉を逃れ、時行軍は鎌倉に入る。尊氏は直義を救うべく鎌倉に向かおうとするが、後醍醐天皇に自らの征夷大将軍就任を奏請してこれが認められないと、8月2日に勅許を待たずに軍を発して直義の残兵と合流、途中で時行の軍を破って、同月19日には鎌倉を回復した。 尊氏は直義の勧めに従いそのまま鎌倉に本拠を置き、独自の武家政権創始の動きを見せはじめた。同年10月、尊氏は新田義貞を君側の奸であるとして天皇にその討伐を要請するが、翌月になると天皇は新田義貞の意見を容れて、逆に一連の尊氏側の動きを反逆とみなして義貞に尊良親王をともなわせて東海道を下らせ尊氏討伐を命じた。さらに東山道からは洞院実世による追討軍が鎌倉に向かい、奥州の北畠顕家にも同様の命令を発した。尊氏は、一度は天皇の赦免を求めて浄光明寺に籠って隠退を宣言するが、直義・高師直ら足利軍が各地で劣勢となると、彼ら一族一党を救うため天皇に叛旗を翻すことを決意する。こうして、延元の乱が開始されることになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「延元の乱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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