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延原 景能 (のぶはら かげよし、生年不詳 - 天正8年(1580年)3月頃)は備前国の戦国武将。弾正忠。名字は信原と書かれることもある。 == 生涯 == === 浦上家臣時代 === 備前国で浦上氏の家臣として浦上則宗の代から仕える備前延原氏の出身。延原氏は応仁の乱後に浦上則宗の片腕として備前守護代なども務めた浦上基景の時代から大田原氏と共に浦上家臣として名がある一族である〔寺尾克成『浦上宗景考―宇喜多氏研究の前提』(國學院雑誌、1991年)〕。 天文年間末からの浦上政宗と浦上宗景兄弟の分裂において終始宗景に味方した股肱の臣であり、以後宗景に重臣として仕える〔『備前軍記』、ただし兄弟分裂の時期に誤りがある〕。永禄11年(1568年)6月1日には備前の片上と浦伊部(いずれも現在の岡山県備前市内)の間で起こった境界争いの仲介を大田原長時・服部久家・日笠頼房・岡本氏秀・明石行雄と景能の6人が行っている〔『来住家文書』〕。この時、6人の重臣の中で浦上宗景からの偏諱と思しき「景」の字を拝領していたのは景能のみであり、またこの6人の筆頭に名前が載せられていたのが景能であった。 天正2年(1574年)から浦上宗景と宇喜多直家の対立が激化し、天神山城の戦いが開戦した際には宗景を支持し、情勢不利となっても宗景とともに天神山城に籠り交戦していたが、やがて抗い切れないと悟ると宗景を見限り景能も直家に寝返った。この時、『天神山記』では景能が「逆臣の長」として名前が挙げられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「延原景能」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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