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平 徳子(たいら の とくし/とくこ/のりこ〔名前の読みに関して、小説やドラマなどでは「とくこ」と読まれる場合が多いが、当時の人名が重箱読みされることはまずあり得ないため、無理がある(読みが分からない女性名を音読みする歴史学の慣習に従えば「とくし」であるが、当時本人がそう呼ばれた訳ではない)。女性の名前についての研究をまとめた「日本の女性名」(角田文衛著、教育社、1980年)では「のりこ」の読みを採用している。しかしながら、必ずしも角田説の「のりこ」の読みは一般的ではなく、小説のみならず中世史研究者の書籍でも依然「とくこ」(例:上杉和彦明治大学教授『戦争の日本史 6 源平の争乱』(吉川弘文館 2007年)、関幸彦鶴見大学教授『図説 合戦地図で読む源平争乱』(青春出版社、2004年)など)または「とくし」(奥富敬之早稲田大学講師「歴史群像シリーズ 平清盛」)と読みのルビが打たれている。〕、久寿2年(1155年) - 建保元年12月13日(1214年1月25日))は、高倉天皇の中宮。安徳天皇の国母。父は平清盛、母は平時子。異母兄に重盛、基盛。同母兄弟に宗盛、知盛、重衡がいる。院号は建礼門院(けんれいもんいん)。 清盛と後白河法皇の政治的協調のため、高倉天皇に入内して第一皇子・言仁親王(後の安徳天皇)を産む。安徳天皇の即位後は国母となるが、高倉上皇と清盛が相次いで没し、木曾義仲の攻撃により都を追われ、壇ノ浦の戦いで安徳天皇・時子は入水、平氏一門は滅亡する。徳子は生き残り京へ送還されて出家、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔った。 『平家物語』「灌頂巻」では大原を訪れた後白河法皇に自らの人生を語り、全巻の幕引き役となっている。 == 生涯 == === 入内 === 久寿2年(1155年)、平清盛と正室(継室)・時子との間に生まれる〔『山槐記』治承2年6月28日条に、「御年廿四」とある。〕。 父の清盛は保元の乱・平治の乱に勝利して武士として初めて公卿となり、軍事・警察権を掌握して朝廷内に大きな勢力を築きつつあった。仁安元年(1166年)10月10日、後白河上皇は清盛の支援により憲仁親王(後の高倉天皇)の立太子を実現し、院政を開始する。清盛は大将を経ずに内大臣に任じられるという破格の待遇を受けた。しかし、後白河院政は内部に院近臣・堂上平氏・武門平氏・摂関家などといった互いに利害の異なる諸勢力を包摂していたため、常に分裂の危機を孕んでいた。高倉天皇の即位後も、嘉応の強訴において後白河院と平氏の政治路線の違いが表面化し、殿下乗合事件では平氏と摂関家が衝突するなど、政局の動揺が続いた。 承安元年(1171年)、高倉天皇が元服すると徳子入内の話が持ち上がる。『愚管抄』によると清盛が「帝ノ外祖ニテ世ヲ皆思フサマニトリテント」という望みを抱いたとする。後白河院も政治基盤の強化のためには清盛の協力が不可欠であり、入内を認めた。実現の背景には両者の対立を回避し、高倉天皇の治世安定を願う建春門院の意向が大きく反映したと思われる。 12月2日、院殿上において入内定が行われ、徳子は従三位に叙せられる(『玉葉』『兵範記』同日条)〔「徳子」という名は藤原永範がこの時に選んだものである。〕。 待賢門院の例が用いられ、徳子は後白河法皇と重盛の猶子となったが「かの例頗る相叶はざる由、世以てこれを傾く」(『玉葉』11月28日条)と周囲からは疑問の声が上がった。12月14日、徳子は法住寺殿に参上して、建春門院の手により着裳の儀を行ってから大内裏へ向かった。後白河法皇と建春門院は七条殿の桟敷から行列を見送ったが、その夜は「明月の光朗らかにして、白沙は昼の如し」(『兵範記』同日条)であったという。16日、徳子は女御となり、翌承安2年(1172年)2月10日、立后して中宮となった(『玉葉』同日条)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平徳子」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Taira no Tokuko 」があります。 スポンサード リンク
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