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建部寿徳 : ミニ英和和英辞書
建部寿徳[たけべ じゅとく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

寿 : [ことぶき]
 【名詞】 1. congratulations! 2. long life! 

建部寿徳 : ウィキペディア日本語版
建部寿徳[たけべ じゅとく]

建部 寿徳(たけべ じゅとく)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将
== 生涯 ==
天文6年(1537年)、近江国神崎郡建部郷にて六角氏家臣・建部秀清(秀治)の次男として生まれる。はじめ秀栄、後に高光を名乗ったが若年の頃から僧形となり寿徳を称した。
父・秀清は六角氏と織田信長の合戦で討ち死に、兄・秀直は六角義治に仕えたが、駒井某に殺害されている。一説には兄の仇を取るべく駒井某を探し出し、建部大社の祭礼の日に近江八幡で討ち果たし、その勇名によって信長に召し抱えられたという。織田家では近江守山に500石を領した〔『寛政重修諸家譜』〕。
ところが、織田氏へ仕官後は主に吏僚として活躍した。はじめ、織田家臣・中川重政に属し、元亀2年(1571年)に重政の代官として常楽寺にあり、柴田勝家の代官と紛争を起こしたことがあった〔『武家事紀』〕。のち、丹羽長秀の配下に転じたようで、若狭国小浜郡代として小浜城に入り、北陸の陸路・海路の物資集散の中継地点の代官職をこなした。
やがて羽柴秀吉にその才を認められ、本能寺の変で織田信長が討たれると、秀吉配下に転じた〔。物資の荷扱いや兵糧・弾薬などの管理に長けていたため〔『太閤記』〕、秀吉の蔵入地である摂津国尼崎3万石の代官に任命し、大坂の西の備えとして尼崎城と尼崎港の管理を命じた〔。天正15年(1587年)の九州征伐では、小西隆佐らと共に豊臣軍の補給を担当。中継基地である尼崎には莫大な人員・物資が集められたが、寿徳は混乱なく任を果たした〔。
文禄元年(1592年)の文禄の役では名護屋城普請の奉行に名を連ねる〔。慶長3年(1598年)には長束正家の下で越前国検地の奉行の一人として働いた。
同年(1598年)の秀吉死後も引き続き尼崎郡代を務め、また豊臣秀頼の近習としても数えられた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いには嫡男・光重が西軍として参加したが、戦後に池田輝政の取り成しで改易を免れ、所領と尼崎郡代職ともども安堵された。
慶長12年(1607年)に死去。71歳であったという〔『寛政重修諸家譜』。ただ異説も存在する。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「建部寿徳」の詳細全文を読む




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