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建部 清庵(たてべ せいあん、正徳2年7月11日(1712年8月12日) - 天明2年3月8日(1782年4月20日))は、江戸時代中期の医者。陸奥国一関の地から杉田玄白と書簡を交わし、蘭学の発展に協力した。諱は由正(よしまさ)。字は元策。 == 生涯 == === 生い立ち === 正徳2年(1712年)川小路に生れ、享保15年(1730年)、19歳で仙台に遊学、4年後帰郷。その後江戸に出てオランダ医学を学ぶ。その際、蘭方医の家として有名な桂川家に入門を願ったが、当時桂川家は弟子をとらないことにしており、認められなかった。帰郷後、37歳で元水の跡を継ぐ。以来一関を出ることはなかったという。天明2年(1782年)3月8日、71歳にて没。済世軒諦道清庵と謚された〔『郷土人物伝』156頁 〕。墓は一関の瑞雲寺〔『興亜の礎石』12頁 〕。 清庵の医術は絶妙を極め、生前から、 :「一ノ関に過ぎたるものが二つあり。時の太鼓に建部清庵」 と歌われるほどだった〔『郷土人物伝』155頁 〕。なお、時の太鼓というのは、御三家格の大名でないと認められない時の太鼓が、特別に一関藩に認められたことを指す。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「建部清庵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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