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張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)は、1928年(昭和3年、民国17年)6月4日、中華民国・奉天(現瀋陽市)近郊で、日本の関東軍によって奉天軍閥の指導者張作霖が暗殺された事件。別名「奉天事件〔コトバンク〕」。中華民国や中華人民共和国では、事件現場の地名を採って、「皇姑屯事件」とも言う。終戦まで事件の犯人が公表されず、日本政府内では「満洲某重大事件〔コトバンク〕」と呼ばれていた。 == 背景 == 馬賊出身の張作霖は、日露戦争で協力したため日本の庇護を受け、日本の関東軍による支援の下、段芝貴を失脚させて満洲での実効支配を確立、有力な軍閥指導者になっていた。 張作霖は日本の満洲保全の意向に反して、中国本土への進出の野望を逞しくし、1918年(大正7年)3月、段祺瑞内閣が再現した際には、長江奥地まで南征軍を進めた。1920年8月、安直戦争の際には直隷派を支援して勝利するが間もなく直隷派と対立。1922年、第一次奉直戦争を起こして敗北すると、張は東三省の独立を宣言し、日本との関係改善を声明した。鉄道建設、産業奨励、朝鮮人の安住、土地商祖などの諸問題解決にも努力する姿勢を示したが、次の戦争に備えるための方便にすぎなかった〔井星英「張作霖爆殺事件の真相」〕。 第一次国共合作(1924年)当時の諸外国の支援方針は、主に次の通りであった。 * 奉天軍(張作霖) ← 日本 * 直隷派 ← 欧米 * 中国国民党 ← ソ連(実質は党内の共産党員への支持) 1924年(大正13年)の第二次奉直戦争では、馮玉祥の寝返りで大勝し、翌年、張の勢力範囲は長江にまで及んだ。1925年11月22日、最も信頼していた部下の郭松齢が叛旗を翻し、張は窮地に陥った。関東軍の支援で虎口を脱することができたが、約束した商租権の解決は果たされなかった。郭の叛乱は馮玉祥の教唆によるもので、馮の背後にはソ連がいたため、張作霖は呉佩孚と連合し、「赤賊討伐令」を発して馮玉祥の西北国民軍を追い落とした〔。1927年4月には北京のソビエト連邦大使館を襲撃し中華民国とソ連の国交は断絶。 国民党の北伐で直隷派が壊滅(1926年)した後、張作霖は中国に権益を持つ欧米(イギリス、フランス、ドイツ、アメリカなど)の支援を得るため、日本から欧米寄りの姿勢に転換。権益を拡大したい欧米、特に大陸進出に出遅れていた米国が積極的に張作霖を支援。 同時期、国民党内でも欧米による支援を狙っていたが、1927年4月独自に上海を解放した労働者の動向を憂慮した蒋介石が中国共産党員とその同調者の一部労働者を粛清し、国共合作が崩壊。北伐の継続は不可能となったが、この粛清以降、蒋介石は欧米勢力との連合に成功した。 1926年12月、ライバル達が続々と倒れていったため、これを好機と見た張作霖は奉天派と呼ばれる配下の部隊を率いて北京に入城し大元帥への就任を宣言、「自らが中華民国の主権者となる」と発表した。大元帥就任後の張作霖は、更に反共・反日的な欧米勢力寄りの政策を展開する。張作霖は欧米資本を引き込んで南満洲鉄道に対抗する鉄道路線網を構築しようとし〔つくる会「新版 新しい歴史教科書」自由社刊 198頁 2009年〕、南満洲鉄道と関東軍の権益を損なう事になった。この当時の支援方針は次の通りである。 * 奉天軍(張作霖) ← 欧米・日本 * 国民党 * 中国共産党 ← ソ連 満洲における張作霖の声望は低下し民心は離反した。「今日のごとき軍閥の苛政にはとうてい堪えることはできない。……この不平は至るところに満ちており、この傾向は郭松齢事件以後、今日ではさらに濃厚になっている」と奉天東北大学教授らは述べている。奉天政府の財政は破綻の危機に瀕しており、1926年の歳出に占める軍事費の比率は97%で、収支は赤字であった。張政権は不換紙幣を濫発し、1917年には邦貨100円に対し奉天紙幣110元だったのが、1925年には490元、1927年には4300元に暴落した〔。 1928年4月、蒋介石は欧米の支援を得て、再度の北伐をおこなう。 この当時の支援方針は次のような構図に変化していた。 * 奉天軍(張作霖) * 国民党 ← 欧米 * 共産党 ← ソ連 当時の中華民国では民族意識が高揚し、反日暴動が多発した。蒋介石から「山海関以東(満洲)には侵攻しない」との言質を取ると、国民党寄りの動きもみせ、関東軍の意向にも従わなくなった張作霖の存在は邪魔になってきた。 また関東軍首脳は、この様な中国情勢の混乱に乗じて「居留民保護」の名目で軍を派遣し、両軍を武装解除して満洲を支配下に置く計画を立てていた。しかし満州鉄道(満鉄)沿線外へ兵を進めるのに必要な勅命が下りず、この計画は中止された。 1928年、以下のような記事が新聞発表された。 電報 昭和3年6月1日 参謀長宛 「ソ」連邦大使館付武官 第47号 5月26日「チコリス」軍事新聞「クラスヌイオイン」は24日上海電として左の記事を掲載せり 張作霖は楊宇霆に次の条件に依り日本と密約締の結すべきを命ぜり 一.北京政府は日本に対し山東本島の99年の租借を許し 二.その代償として日本は張に五千万弗の借款を締結し 三.尚日本は満洲に於ける鉄道の施設権の占有を受く 1928年6月4日、国民党軍との戦争に敗れた張作霖は、北京を脱出し、本拠地である奉天(瀋陽)へ列車で移動する。この時、日本側の対応として意見が分かれる。 * 田中義一首相 : 陸軍少佐時代から張作霖を見知っており、「張作霖には利用価値があるので、東三省に戻して再起させる」という方針を打ち出す。 * 関東軍 : 軍閥を通した間接統治には限界があるとして、社会インフラを整備した上で傀儡政権による間接統治(満洲国建国)を画策していた。「張作霖の東三省復帰は満州国建国の障害になる」として、排除方針を打ち出した。 4月19日、北伐が再開されると、日本は居留民保護のために第二次山東出兵を決定し、5月3日、済南事件が起こった。さらに日本は、満洲から混成第28旅団を山東に派遣し、代わりに朝鮮の混成第40旅団を満洲に派遣した。5月16日、もし満洲に進入したら南北両軍の武装解除を行うことを閣議決定し、17日、英米仏伊の四カ国の大使を招いて、この方針を伝達し、18日、この内容を張作霖と蒋介石に通告した。19日、鈴木荘六参謀総長は田中義一首相と協議して、首相が上奏し奉勅命令を伝宣する時期を21日と決定した〔。 5月18日、アメリカから「日本は満洲に対して何らかの積極的行動に出るのではないか、もしそうなら事前にアメリカにその内容を示してほしい」という要求があり、また19日には、アメリカのケロッグ国務長官が記者団に対し、「満州は中華民国の領土である」とし、同国の領土保全を定めた九カ国条約を提示した。のちにケロッグ国務長官は、日本を非難したように曲解されたことは非常に遺憾である旨を松平恒雄駐米大使に述べた。斉藤恒関東軍参謀長の日記によると、24日、アメリカ公使が芳沢謙吉公使に、日本独力にて満洲の治安維持を為さんとするとせば重大なる結果を来す、と告げた〔。 5月20日から関係当局の会議が開かれ、25日にようやく既定方針で進むことが決定されたが、有田八郎アジア局長と阿部信行軍務局長が腰越の別荘にいた田中首相に決裁を求めると、田中首相は「まだええだろう」と答え、関東軍宛てに「錦州出動予定中止」が打電された。河本大作は「松平駐米大使からの報告に基づいて、田中首相がアメリカの輿論に気兼ねをし、既定の方針の敢行をためらった」と発言し、石原莞爾中佐は「出淵(松平の誤り)の電報一本で参謀本部が腰を抜かしたのだ」と語ったという〔。 村岡長太郎関東軍司令官は国民党軍の北伐による混乱の余波を防ぐためには、奉天軍の武装解除および張作霖の下野が必要と考え、関東軍を錦州まで派遣することを軍中央部に強く要請していたが、最終的に田中首相は出兵を認めないことを決定した。そこで村岡司令官は張作霖の暗殺を決意した。河本大作大佐は初め村岡司令官の発意に反対したが、のちに独自全責任をもって決行したという。 河本大作を満洲に送り込んだのは一夕会の画策であったと土橋勇逸は証言している〔土橋勇逸『軍服生活四十年の想出』〕。 毛沢東伝の「マオ」によると「コミンテルンの謀略」としており、異説を唱える人も多い。 東京裁判では河本大作は証言に呼ばれていない。 渡部昇一氏もその後ソ連の解体から出た資料から、コミンテルンメンバーが実施した資料が出てきているとし、この説をとっている。 また爆破写真を見ても貨車の天井が飛んでいるので、自分が内部から爆破したというコミンテルンのメンバーの証言の方が信憑性が高い。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張作霖爆殺事件」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Huanggutun Incident 」があります。 スポンサード リンク
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