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張卬 ( リダイレクト:張ゴウ ) : ウィキペディア日本語版 | 張ゴウ[ちょう ごう]
張 卬(ちょう ごう、生没年不詳)は、中国の新代の武将。緑林軍の武将、のち更始帝(劉玄)政権の重鎮。 == 事跡 ==
=== 緑林軍時代と更始帝擁立 ===
地皇3年(22年)、疫病が原因で緑林軍は分散しなければならなくなったが、張卬は、王常、成丹と共に藍口聚(南郡編県)で「下江軍」を号し〔張卬は、『後漢書』劉玄伝によると新市軍、同王常伝によると下江軍に合流したとされている。ただ、後者の描写は詳細であること等から、本記事では後者をとる。〕、王常を下江軍の頭領に戴いた。 同年、下江軍が宜秋聚(南陽郡平氏県)に駐屯していた際に、舂陵軍の劉縯(劉秀の兄)が合流を求めて交渉にやってきた。張卬と成丹は、劉縯の家柄を考えれば、その下風に立たざるを得ないと考え、合流に消極的であった。しかし、合流を望む王常の説得を受け、2人を始めとする他の下江軍部将はこれを承認した。地皇4年(23年)1月、舂陵軍・下江軍の連合軍は、泚水で新の前隊大夫(新制の南陽太守)甄阜、屬正(新制の都尉)梁丘賜を撃破し、討ち取っている。 その後、緑林軍は再合流し、劉縯と平林軍出身の劉玄とのいずれを皇帝として擁立するかが、諸将の間で議論となった。この際に、南陽の士大夫(舂陵の諸将など)と王常は劉縯、その他の諸将は劉玄を推している。そして張卬は、劉玄派に与していた。結局、劉縯が劉玄に譲る形となり、議論の最後で、張卬は抜剣して地を斬りつけ、「これ以降、この話を蒸し返すことは許さん」と言い放っている。こうして更始1年(23年)2月、劉玄は更始帝として即位し、張卬は衛尉大将軍に任命された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張ゴウ」の詳細全文を読む
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