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張士貴[ちょう しき] 張 士貴(ちょう しき、586年 - 657年6月3日)は、中国の唐の軍人。本名は忽峍。字は武安。本貫は、虢州盧氏県。 == 経歴 == 百五十斤の強弓を引き、左右自在に射て的を外すことがなかったと言われる。隋の大業末年、起兵して城邑を攻掠し、「忽峍賊」と号した。617年、李淵が起兵すると、士貴を招き、右光禄大夫に任じた。士貴は劉文静の下で征戦に従い、熊州刺史の鄭仲達を破った。618年、李建成の東征に従って、第一軍総管となり、先鋒をつとめた。まもなく長安に召還され、通州刺史に任ぜられた。薛挙と戦って功績を挙げた。唐が建国された後、澠池で王世充の部将の郭士衡らを破った。619年、馬軍総管に任ぜられ、熊州を経略した。王世充の大軍と遭遇して奮戦し、功績により新野県開国公の爵位を受けた。620年の劉武周との戦いにも先頭に立ち、621年に洛陽が平定されると、虢州刺史に任ぜられた。622年には淮安王李神通の下で徐円朗と戦い、秦王府右庫真驃騎将軍に任ぜられた。太子内率・右驍衛将軍を経て、627年に右屯衛将軍に転じた。632年、右武候将軍・燕州道行軍総管となった。633年、龔州道行軍総管に転じ、右屯衛大将軍に任ぜられ、虢国公に進封された。龔州道行軍総管のまま桂州都督を検校し、南方の少数民族の制圧にあたった。のちに夏州・蘭州・幽州の都督を歴任した。644年、高句麗遠征(唐の高句麗出兵)において遼東道行軍総管をつとめ、冠軍大将軍に任ぜられた。以後も茂州都督・雅州道行軍総管・揚州都督府長史などの職を歴任した。651年、左領軍大将軍に上った。657年、河南県顕義里の邸で世を去った。輔国大将軍・都督荊硤岳朗等四州諸軍事・荊州刺史の位を追贈され、昭陵に陪葬された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張士貴」の詳細全文を読む
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