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張孝傑(ちょう こうけつ、生没年不詳)は、遼(契丹)の政治家。本貫は建州永霸県。 == 経歴 == 貧家に生まれ、学問を好んだ。重熙24年(1055年)、進士第一に抜擢された。清寧年間、枢密直学士に累進した。咸雍初年、誤った上奏をおこなった事件に連座して、恵州刺史に左遷された。まもなく旧職に復帰し、知戸部司事を兼ねた。3年(1057年)12月、参知政事・同知枢密院事となり、工部侍郎の位を加えられた。8年(1062年)、陳国公に封じられた。道宗は孝傑の仕事ぶりが要を得ているとみて、たびたび内政のことを諮問した。北府宰相にのぼり、遼朝の漢人のうちで最も高い地位についた。 太康元年(1075年)12月、耶律の国姓を賜った。2年(1076年)秋、道宗が狩猟をおこなって1日に鹿30頭を射止めると、官僚たちと宴会した。道宗は黍離の詩を誦して「わたしを知る者は我が心の憂いを述べ、わたしを知らざる者はわたしが何を求めるか述べよ」と言った。孝傑が「いま天下は太平であり、陛下は何を心配なさいますか。富は四海にあり、陛下は何を求めましょう」と奏すると、道宗は喜んだ。3年(1077年)、群臣が宴会に侍ると、道宗は「先帝は耶律仁先や耶律化葛を賢智であるとして任用した。朕には孝傑や耶律乙辛がいて、仁先や化葛の下につかない賢智な人物である。まことに人材を得たものだ」と言って痛飲した。 この年の夏、耶律乙辛が皇太子耶律濬を誣告すると、孝傑は皇太子派を粛清する計画に手を貸した。5年(1079年)1月、道宗は孝傑を狄仁傑にたとえて、仁傑の名を賜った。6年(1080年)、道宗も孝傑の姦佞に気づいて、武定軍節度使として左遷した。塩の密売と詔書の改竄の罪を問われて、爵位を削られ、安粛州に流された。数年して帰京した。太安年間、郷里で死んだ。乾統元年(1101年)3月、棺が暴かれて遺体を辱められ、一族の資産は没収されて臣下に分賜された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張孝傑」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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