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張 嶷(ちょう ぎょく、または ちょう ぎ、? - 254年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将。蜀漢に仕えた。字は伯岐。益州巴西郡南充県(四川省南充市)の人。子は張瑛・張護雄。孫は張奕。 == 生涯 == 貧家の生まれだったが、若い頃から士気勇壮な人物として知られた。 20歳の時に県の功曹となった。215年夏5月、劉備が益州を平定した時に山賊が県を襲った。県令が家族を捨て単独で逃亡したが、張嶷は自ら白刃をかい潜り県令の家族を助けて、これを避難させた。このことを劉備から高く評価され、州の従事に任じられた。数年後、広漢・綿竹付近が山賊に襲われた時、張嶷は討伐の任に当たったが、山賊らが攻めても逃げ散ってしまったため、これをまともに討伐する事は不可能と判断した。そこで和睦と偽って賊を酒宴に招き、その場で自ら側近を率い山賊の首領ら50人余りを皆殺しにして、平和を取り戻した。 後に牙門将軍に任じられ、馬忠の副将として西南夷討伐と北伐などの遠征でチベット系羌族などの異民族を討伐したが、その勝利は彼の武勇・計略に拠るところが大きかった。また諸葛亮の死後も南中に駐屯し続けた。当時の越嶲郡は異民族が勢力を拡大していたため、太守に任じられた者も恐れて郡内に入れず、郡として機能していなかった。張嶷は太守として赴任すると、恩徳と威信を示して多数の部族を投降させ、従わない部族は計略を持って撃ち破り、郡の機能を回復させた。その後、軍事・行政面において大いに功績を立て昇進を続け、盪寇将軍に任じられ、関内侯を賜った。異民族の統治に尽力し、彼らから大いに慕われた。張嶷が中央へ召還されることになった際には、異民族の民は車にすがり涙を流して悲しみ、また百余人もの部族の王が張嶷に従って蜀へ朝貢した。 晩年は重病で歩行も困難な状態に陥ったが、姜維が北伐を再開した254年、重病の身を押して従軍した。この戦いにおいても、狄道の李簡の帰順を成功させるなど(後述)知略は衰えず、最後は魏の徐質と戦って戦死したが、張嶷の部隊は味方の損害の倍以上の敵を殺傷し、徐質を戦死させた。恩顧を受けた多くの異民族は張嶷の陣没を聞き、涙を流して慟哭を繰り返し偲んだという。 また、最後の戦役の出立に際して、張嶷は劉禅に対し「臣は陛下の恩寵を受けながら、病によっていつ死ぬかわからぬ身となってしまいました。急に世を去りでもして、ご厚恩に背きはしないかといつも恐れておりましたが、今日こうして願いが適い、軍事に参加する機会を得ました。仮に涼州を平定したならば、臣は外にあって逆賊を防ぐ守将となりましょう。しかしながら、もし不運にも勝利を得られなかったならば、我が命を捧げ国家のご恩に報いる所存でありまする」と別れの言葉を述べている。劉禅はその言葉に感動し、彼のために涙を流したという。その死は多くの人々に惜しまれて、廟(あるいは石碑)を建立され、後の時代まで祀られたといわれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張嶷」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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