|
張 廷玉(ちょう ていぎょく、1672年(康熙11年) - 1755年(乾隆20年))は、清朝の政治家。字は衡臣、号は研斎。安徽桐城の出身。保和殿大学士、軍機大臣、太保の位を得て、三等伯に封ぜられ、三朝にわたって50年仕えた。 *康熙11年生まれで、父は康熙朝の大学士・張英。康熙39年に進士(科挙の最終合格者)となる。康熙朝の検討、直南書房、洗馬、侍講学士、内閣学士、刑部侍郎、吏部侍郎等の職を歴任する。 *雍正元年礼部尚書に昇進、次年に戸部尚書、翰林院掌院学士、国史館総裁、太子太保へ転任。 *雍正3年、大学士の仕事に配属される。雍正4年、文淵閣大学士、戸部尚書、翰林院掌院学士へ進み、康熙実録総裁官を兼任する。 *雍正6年(1728年)、保和殿大学士兼吏部尚書へ転任する。 *雍正7年、少保の階級を得る。同年、西北での戦争により、軍機房を隆宗門内に設け、怡親王允祥より、その仕事を大学士の蒋廷錫が取り締まった。雍正帝の臨終で、オルタイ(鄂爾泰)と共に勅命をうけて大臣となった。乾隆帝の時代に、両朝の元老となったことを朝廷が重くみて、死後太廟へ祀られた。清代を通して、漢族の大臣で太廟に祀られた者は張廷玉ただ一人である。 張廷玉の在任期間での主な仕事は皇帝の秘書であり、上奏文の制度と軍機処の運用規則の改善で貢献した。他の直接政務を処理した大臣と違い、歴史上張廷玉の具体的な功績はあまり多く残されていない。 張廷玉の人となりは、小心翼々として「万言万当、不如一黙」(宋の黄庭堅の言)を謹んで守った。そのため雍正帝は彼を「器量純全、抒誠供職」と讃え、「大臣中第一宣力者」と称した。 相前後して『康熙字典』『雍正実録』、そして『明史』『国史館』『清会典』を編纂した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張廷玉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|