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張廷諤[ちょう ていがく]
張 廷諤(ちょう ていがく、、1890年(清光緒16年) - 1973年(民国62年)7月27日)は、中華民国(台湾)の政治家。字は直卿。 == 事績 == 1910年(宣統2年)に遵化中学を卒業し、その後日本へ留学して大阪高等工業学校で学んだ。1911年10月に武昌起義(辛亥革命)が勃発すると帰国し、馮玉祥らが主導した灤州起義に参加する。しかし蜂起は失敗に終わり、山東省で革命派を率いていた胡瑛の下へ逃れて黄県県長を務めた。〔徐主編(2007)、1787頁。〕〔劉国銘主編(2005)、1194頁。〕 中華民国建国後に張廷諤は復学し、天津直隷高等工業学堂機械科で学ぶ。1915年(民国4年)に卒業後、直隷航輪局理事や天津内河輪船局局長に任ぜられ、まもなく直隷省議会議員に当選している。袁世凱死去後、張は直隷派の一員と目されるようになる。1922年(民国11年)、山東省塩運使兼青島接収委員会委員に任ぜられた。その後、北京電報局総弁兼直魯電政監督に移っている。1923年(民国12年)、国務院秘書長に抜擢され、翌1924年(民国13年)1月以降は、総統府高等顧問、山西省河東塩運使、直隷省長蘆塩運使を歴任している。しかし、直隷派指導者である曹錕が北京政変(首都革命)で失脚したため、張も下野した。その後は天津で塩の販売業を営むなどしている。〔〔 1933年(民国22年)5月、行政院駐北平政務整理委員会委員長の黄郛と旧交があったため、張廷諤は顧問として招聘された。1934年(民国23年)11月、天津特別市市長となるが、数か月後の翌年6月に罷免された。日中戦争(抗日戦争)勃発に伴い、天津が陥落すると、租界に逃れて寓居した。更に上海、香港を経て、1939年(民国28年)に重慶へ移っている。戦後の1945年(民国34年)8月に天津市長に再任され、天津市党政接収委員会主任委員も兼ねた。翌1946年(民国35年)10月、病気により辞職している。国共内戦末期に台湾へ逃れ、総統府国策顧問に任命された。1973年(民国62年)7月27日、台北市にて死去。享年84。〔徐主編(2007)、1787-88頁。〕〔
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張廷諤」の詳細全文を読む
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